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 いっそ死んでしまいたい。死ねたらどんなにラクだろう。若尾文子さんは22歳のとき、そこまで思い詰めたことがある。溝口健二監督の「赤線地帯」という映画の撮影で、若尾さんの演技に納得できなかった監督は、実に10日間もフィルムを回さなかったという。

「何の経験もない私(あたくし)のような小娘が、海千山千の赤線の女で、男の人を手玉に取る、とても難しい役でした。錚々たる先輩女優が全員支度をして待ち構える中、何日も何日も私のせいで撮影が進まなくて……。溝口健二さんって、とくに大男じゃないのに、スタジオに入るとこう……突き当たりに座っていらして、当時は仁王様みたいに大きく見えたものです。私は、怖かったので顔を見ることができなかったですけど。それが、不思議ですね。自分では同じことしてるつもりでも、死んでしまいたいと思うほど苦しんだことで何かが変わったのか、10日目に、『回そう』っておっしゃったんです」

 撮影のあと、溝口監督からかけられた言葉を若尾さんは昨日のことのように覚えている。“俳優は何かを演じる必要はない。その人間がそこにいるように見えりゃいいんだ”。

「あとになって、モスクワ芸術座が、日生劇場で舞台を上演していたので観に行ったら、何もせずにただ座って台詞を言うだけの老優に、私の視線が釘付けになってしまったことがあったの。それで、“ただそこにいるだけでいい”っていうのは、なるほどこういうことを言うんだな、と。溝口監督は、一番難しいことを教えてくれたんだって思いました」

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