600万部を超すベストセラー「モモちゃん」シリーズ(講談社)や、赤ちゃんのための絵本『いない いない ばあ』(童心社)などで知られる児童文学作家、松谷みよ子さんが2月28日、老衰で亡くなった。享年89。子どもたちに愛され続ける名作の数々は、波乱の人生のなかで生まれた。
ライフワークである民話の採訪がベースになった創作童話『龍の子太郎』(講談社)、反戦平和の思いを込めた『ふたりのイーダ』(講談社青い鳥文庫)や『私のアンネ=フランク』(偕成社文庫)──。松谷さんが60年余りの作家生活で手掛けた数百点に上る作品の中で唯一、自分の来し方を書いたのが『自伝 じょうちゃん』(朝日文庫)だ。本誌で2006年9月から半年間にわたり連載。きっかけは、前年のインタビューだった。
「当時79歳でありながら、いきいきキラキラされていた。高齢でも美しくお元気だったので、連載していただけないかとお願いしました」
当時の担当編集者で現在は朝日新聞記者の宇佐美貴子さんが振り返る。「父や母、家族のことを記録に残したい」。松谷さんはそう言って快諾したという。
連載では東京・神田で生を受け、裕福に過ごした幼少期から、戦後を代表する児童文学作家として歩みを踏み出すまでの、波乱の半生をつづっている。
父は社会派の弁護士として辣腕をふるった。そんな父が「錦紗ぐるみにした」(『自伝 じょうちゃん』から)母は、おしゃれで美しく、当時の女性らしからぬ発言をした。
「ただ一つ、母から言われたのは、『女は一生台所に立たにゃならん。だからいま本を読みなさい』」(同)
アルスの日本児童文庫など200冊近くが本棚に並ぶ恵まれた環境は、11歳のときに父が交通事故で急逝し一転する。貧しい暮らしを強いられ、さらに戦争が暗い影を落とした。大学へ進まず、東亜交通公社(現JTB)で働きながら、女子挺身隊に志願した。着物と食糧を交換してもらおうと、郊外の農家を訪ねた帰り道、米国の艦載機に銃撃されて命からがら逃げたこともある。身の危険を感じて長野県平野村(現・中野市)へ疎開した矢先、東京大空襲で自宅が全焼、すべてを焼き尽くされた。
失意のどん底の中、人生を変える出来事が長野で待っていた。“生涯の師”と仰いだ児童文学作家の坪田譲治さんとの出会いだ。坪田さんは松谷さんの才能を見いだし、その後も公私にわたって支え続けた。
終戦後、東京で働きながら人形劇サークルを立ち上げる。指導にやってきた人形座の瀬川拓男さんの影響で民話の世界に目覚め、ライフワークとなる民話採訪を始めた。1955年、瀬川さんと結婚。2児をもうけ、母の温かな視線から名作「モモちゃん」シリーズを生んだ。3作目となる『モモちゃんとアカネちゃん』で、児童文学ではタブーとされた親の離婚を、子どもにもわかるたとえで表現した。これは瀬川さんとの離婚の苦悩を描いたとされている。自伝で触れているのは、離婚を乗り越え前を向くところまで。
「苦しかった時代を、80歳になってようやく書くことができたのかもしれません」(宇佐美さん)
担当編集者の目には、松谷さんはいつも穏やかでチャーミング、山の手育ちならではの品のある東京弁で話す、おしゃれな女性だった。だが、一つだけ忘れられないシーンがある。松谷さんが一度だけ締め切りを忘れたことがあった。宇佐美さんが慌てて自宅を訪ねると、松谷さんは「3時間待って」。原稿を書くのは自宅ではなく喫茶店。大作家の創作の様子を、宇佐美さんはこっそりのぞき見たくなった。そして、その光景に息をのんだ。
「原稿用紙に向き合う姿は、私の知っている穏やかな人ではなかった。集中力が気炎のように立ち上り、正直怖いとすら感じました」
さらに続ける。
「松谷さんの作品は温かいだけでなく、ときに怖さや厳しさを感じさせる。それは松谷さん自身が優しさと厳しさを内に秘めていたからではないでしょうか」
※週刊朝日 2015年3月27日号