羽仁進
映画監督
はに・すすむ 1928年、東京都生まれ。祖父母が創立した自由学園で学ぶ。共同通信社の記者を経て、49年、岩波映画の設立に参加。52年、「生活と水」で初監督。「教室の子供たち」や「絵を描く子どもたち」が注目を集める。後にフリーに。映画作品に「ブワナ・トシの歌」「不良少年」「初恋・地獄篇」など多数(撮影/写真部・工藤隆太郎)
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 共同通信社の記者を経て、1949年、岩波映画の設立に参加した映画監督の羽仁進(はに・すすむ)さん(86)。岩波映画で撮った映画は数多くの賞を受賞した。当時をこう振り返る。

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 岩波に在籍していた時代に、僕は人生の中で強く印象に残る二人の人間と出会いました。一人は岩波映画を立ち上げた吉野馨治さん。無声映画の時代からのカメラマンで、戦前はエノケンの映画を撮ったことでも知られた人です。劇映画を散々撮られたあとで、こんな映画はつまらんと言って本当の科学映画を撮り始めたんです。物理学者の中谷宇吉郎さんと作った「雪の結晶」は名作です。

 もう一人は、カメラマンで編集者の名取洋之助さん。この方は空飛ぶ大きな象のような人で、しかも漫画的な印象がありました。空をプカー、プカーと飛んでいるおかしな象のイメージ。名取さんが岩波書店で写真文庫を出したとき、僕もこれにかかわっていたのですが、毎日のように喧嘩をしながら作りました。でもその喧嘩は、お互いに好意を持ったうえでの喧嘩で、僕はこの方が亡くなったとき、葬儀で狂ったように泣いてね……。それぐらい、名取さんが好きでした。吉野馨治、名取洋之助のお二人は、いわゆる“昭和人”とはかけはなれていて、グループとは無縁な人物だったと思います。

 岩波映画から独立して、昭和39(64)年に、初めてアフリカに行って「ブワナ・トシの歌」という映画を撮りました。渥美清さんが主演だったんですが、映画を全く知らない奥地の人たちが、渥美さんを指して「この人は偉い」と言い出したんです。監督は僕だというのに、現地でも貴重な蜂蜜が手に入ると、一番最初に渥美さんに持っていく。僕になんて回ってこなくて、憤慨しましたね(笑)。渥美さんには、何か不思議な、原初的な人間の魅力があったんだと思います。渥美さんもまた、グループには分類できない方でした。

 ダーウィンの話にたとえると、昭和の人間の大部分は、物事を観たり、触ったりする暇もなく生きてきたんでしょうね。そして平成のいまは、活字さえ読まなくなって、記号をもって理解できたと思っているんでしょう――。

週刊朝日 2015年2月27日号より抜粋

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