あるときは芸人、あるときは吉原の団子売り、あるときはキャバレーの女給──。時代の空気を敏感に感じ取り、強くしなやかに昭和を走り抜けてきた、内海桂子さん。「あたしの昭和は働きっぱなし、昭和なんて、全部見てきましたよ」と話す内海さんの昭和とは。
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――昭和20年3月10日の大空襲で焼け出されていた桂子師匠は戦後、足立区保木間で相方の染芳と同居を始め、翌21(46)年に女児を産む。戦後の混乱期とあって高座の仕事は少なく、染芳は博打とヒロポンに手を染めてぐうたら亭主を決め込む。いきおい一家の稼ぎは桂子師匠の双肩に。戦前の貧困時代、戦中の芸人としての自立と、昭和の時代相とともに働いてきた師匠は、戦後も時代と向き合って働き始める。
戦中にお煎餅屋さんの職人をしていて召集された従兄が復員してきて、あるとき1串4個の焼き団子を作って持ってきたの。「姉さん、これ楽屋で売ってくれ」って。芸人が楽屋で物売りだなんて薄みっともないと思案していると、はたと吉原で売ることを思いついた。着物に割烹着姿で吉原のお女郎屋さんに売り歩くと、団子が飛ぶように売れたのよ。お姐さんたち、自分のお客に買わせるものだから、単位が10本、20本。モノのない時代で小腹を満たすのにぴったり。のちには自宅でのり巻きを作ったり、稲荷寿司を仕入れて持っていったりと、ずいぶんと稼がせていただきましたよ。ま、無許可営業で警察に捕まりかけ、土地の地回りに助けられたりといった一幕もあったけどね。