神戸ポートタワー
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「復興? まだまだ、だね」。1995年1月15日、阪神・淡路大震災の2日前に成人式に招かれた「新成人」は、神戸市で2万5573人いた。あれから20年。大人1年生だった彼らは震災を転機に、ある者は家業を継ぎ、ある者は転職した。復興とともに生きてきた彼らに聞いた。いつ復興を実感しましたか?

 1995年当時、神戸大学で建築を学んでいた本田亙さん(40)は、携わった震災ボランティアで強烈な体験をした。

 震災からひと月半ほどした頃、避難所になっていた東灘区の本山南小学校でのことだ。置いてあった段ボールを、被災者の男性が使いたいと言ってきた。

「数が足りないので、配ってしまうと取り合いになってしまうかもしれない」。そう断ると、男性は、「なんでそんなケチなこと言うねん」。大げんかになった。

 実は、この避難所には、震災1週間後から10日ほどボランティアに来ていた。自宅のある大阪府池田市からバイクで片道約1時間かけて通っていた。当初はボランティアの数は少なく、人手は逼迫(ひっぱく)。ひっきりなしに尋ねてくる人を案内したり、避難者の資料を整理したり、他の小学校に物資の余りがないかを尋ねたり。泥棒の見回りもした。

 ところが1カ月の間に状況は一変。ボランティアは溢れ返り、物資も山ほど届いていて、衝撃を受けた。「1回目に行った時は『やらなきゃいけない』という意識が強かったけど、2回目はその光景を見て何をしていいのか分からなくなってしまって……」

 そこへ来ての被災者との大げんか。しかも相手は、仲が良かった女友達の父親だと後で分かった。友人に「けんかしてやんの」と言われ、何しに来たのかと失意のまま帰り、熱を出した。

 そんな経験をした震災。だが結局、大学院を経て、職場として選んだのは神戸市役所だった。アルバイト先の設計事務所で、地元住民が市職員に熱心に話しかけている光景を見て、設計事務所で「先生」として働くよりも、役所で住民と取り組む街づくりに惹かれたのだ。

 震災の6年後に入庁。最初に配属されたのは新長田を再開発する部署だった。任されたのは国道2号より北側の一番街商店街地域。全壊の被害はあったものの延焼が少なかったため、更地にしての再開発ではなく、繕いながらの街の強化が求められた。地域の人々の考えと市の計画との接点を見いだすことが要点だった。

 結局、「まちなか防災空地」をつくることにした。建て替えが難しい建物を取り壊し、跡地を公園や地域の人が管理する空き地にするのだ。次に災害が起きた時に延焼を防ぐことができる上、地域住民の共用の庭ともなる。

 今は、デザイン都市推進室でデザインを生かした都市づくりを進める。東日本大震災の直後には民間のデザイン会社と「できますゼッケン」を共同開発した。被災地でボランティアスタッフが身につけるゼッケンで、「大工」や「聞き役」など、各自のできることを書いて示す。ボランティア側が役割を明らかにすることで、業務が円滑に回り、トラブルを減らすことができる。あの時の避難所での大げんかが下地にある。

「色んな人がいて、誰が被災者で誰がボランティアか分からへんなぁという当時の状況とすごくシンクロして。20歳の時の失敗を『できますゼッケン』に繋げられたことは、当時の経験を糧に次のステップを考えられたという意味で、一つの復興実感だったと思います」

 復興については、「間接的な関わりしかないので」と断った上で、こう話す。

「戦後がいつ終わったのかというのと一緒で、『復興した』って終わることはなく、ずっと続いていくもの。だから、今後も行動を喚起するデザインと共感を生む仕組みを考えて、都市の魅力化はもちろん、地域や社会の課題の解決に取り組んでいきたいです」

週刊朝日 2015年1月30日号より抜粋

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