佐倉藩藩主として栄えた堀田家。その13代当主堀田正典(まさのり)氏が先祖の秘話を明かした。
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堀田家と聞いてピンとこなくても、幕末に米国総領事ハリスと交渉した老中の堀田正睦(まさよし)なら知っている人も多いのではないでしょうか。私は正睦の孫の孫になります。
祖先の堀田正吉は、関ケ原の戦いのあとに徳川家康に仕えた武将でした。正吉の長男・正盛は、春日局の義理の孫になります。その縁で、春日局が乳母をつとめた家光のそばに仕えました。将軍になった家光に取り立てられて老中になり、今の千葉県にあった佐倉藩11万石の大名になったのは破格の扱いです。もちろん恩義を感じていたようで、家光が亡くなったときには殉死しています。
そのあとを継いだ長男の正信は、事件を起こして領地没収となります。幕府への断りなしに佐倉に帰ってしまったのです。無断で領地へ帰れば謀反と思われてもしかたのないことでした。正信はすべてを失いましたが、子どもの代で琵琶湖近くの近江宮川藩1万石の大名として復帰します。ここが堀田家の本家になります。
私の家は堀田家の分家ですが、正睦のような有名人が出たこともあり、知名度は本家よりもあるようです。うちの初代は、正信の弟・正俊です。春日局の養子となり、大奥で育てられました。父親の正盛と同じように春日局の縁をきっかけに、幕府役人の出世街道を順調にすすみます。老中のときには4代将軍・家綱が亡くなり、ただひとり綱吉を5代将軍に推しました。結果、綱吉は将軍になり、正俊は幕府のトップ、大老にまでのぼりつめたのです。
次の代からしばらくは、藩がかわっても石高は増えない“転勤族”でした。国替えをくりかえし、5代正亮のときに、山形藩から正盛が治めていた佐倉藩に戻りました。それ以降は、ずっと佐倉藩です。
家に伝わっていたものの多くは戦後の混乱期に失ってしまいました。残っているものは、家光に殉死した正盛の辞世の歌を掛け軸にしたもの、初代・正俊が愛用した桑の小机などですが、いちばん大事なのは「扇の小箱」でしょうか。
「将軍家にさしさわりがあるから開けてはいけない」と言い伝えられてきたものです。初代・正俊に関する文書を封印したもので、代々ずーっと開けないで引き継いできました。ところが、父・正久はどうしても中を見たくなった。
1956年、父は日本史学者の東大教授、伊東多三郎博士を自宅に招いて扇の小箱を開けました。家光や家綱らの直筆書画や正俊のメモ帳などが出てきました。なかでも伊東博士が「日本史上重要なもの」と指摘したのは、家綱からの手紙でした。死の3日前に正俊あてに書いたもので、この手紙によって綱吉が5代将軍になったというものです。
父は扇の小箱の古文書を読みこんで、「正俊は自分が将軍にした綱吉の狂的な一面を知ってジレンマに陥っていたようだ」とも言っていました。扇の小箱が封印されていたのは、そこらへんが原因かもしれませんね。
(構成 本誌・横山 健)
※週刊朝日 2014年8月15日号