沖縄戦終結から今年で69年。知られざる戦後沖縄の新たな一面が明らかになってきた。第2次世界大戦直後、沖縄に残された米軍の武器や物資が集められた場所があった。鉄条網で囲まれたそのエリアは「チャイナ陣地」と呼ばれ、中国軍の兵士たちが駐留していたという。
8年前、社会科教師の森岡稔さん(39)は、沖縄本島の中ほど、うるま市にある与勝第二中学校に勤務していた。平和学習をするために、地元のお年寄りに沖縄戦の話を聞いていたとき、不思議な言葉を聞いた。
「住民が米軍の収容所から戻ってきたときにはね、もうそこには『チャイナ陣地』ができていて、中国の部隊がいたわけさ」
チャイナ陣地というのは、中国の部隊がいた場所の通称のようだった。なぜ中国の兵隊が沖縄にいたのか? 不思議に思い、顧問をしていた社会科クラブの活動で取り上げることにした。生徒たちとともに、村史・町史などの資料を調べ、住民たちに聞いて回った。
「チャイナ陣地について載っている文献はほとんどありませんでした。地元のお年寄りだけが知っていて、下の世代には語り継がれていませんでした」
「戦後の混乱期で、落ち着いて観察する余裕なんかなかったのでしょう。それに、沖縄戦の壮絶な体験に比べて、戦後の話はあまり注目されてこなかったですから」
社会科クラブの聞き取りでの成果は文化祭で披露したが、その後も森岡さんは、チャイナ陣地に関する住民への聞き取りを続けた。
2人の研究者が加わり、住民の証言だけでなく米公文書にもあたり、チャイナ陣地が1947年8月から49年6月まで存在していたことや活動内容がわかってきた。そして、今年3月、チャイナ陣地についての論文を共同で発表した。
論文の共同執筆者の一人、日本女子大の高橋順子助教(39)=沖縄教育史=は、チャイナ陣地についてこう説明する。
「米軍の物資を中国に運び出していたのです」
「46年8月に米国と中国との間に『中国に対する余剰資産一括売却に関する協定』が結ばれました。沖縄やグアム、サイパンなどに残された米国の資産を中国に一括で買い取ってもらう、というものです」
当時の中国には、国民党と共産党があり、ときに手を結び、ときに反目していた。日中戦争では互いに協力していたが、日本に勝利したあと対立が激化。46年6月から本格的な戦闘に入った。当初は兵力的に勝っていた国民党が有利だったが、後に共産党が攻勢に転じる。48年には形勢が逆転し、49年10月には共産党の毛沢東が中華人民共和国の樹立を宣言した。国民党の蒋介石は台湾に逃れ、政府も台北に移転した。
ちょうど国民党と共産党が各地で戦闘を繰り広げていた時期に、米国と国民党は協定を結び、チャイナ陣地から物資を送っていたことになる。米国は、国民党を援助していたわけだ。
※週刊朝日 2014年7月11日号より抜粋