映画や小説などフィクションの世界では、実在の人物がモデルになることは多々あること。仙台藩藩主・伊達家の子孫もその一人。第18代当主伊達泰宗(やすむね)氏が先祖について語った。

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 伊達家の分家と家臣団が開墾をしたのは、今で言う石狩郡当別町や伊達市、札幌市白石区などです。

 伊達家本家はというと、戊辰戦争で幕府側についたことで、13代慶邦(よしくに)公は東京で謹慎となりますが、幼くして家督を継いだ14代宗基(むねもと)は、後に初代の仙台藩知事となりました。

 実は、宗基のほかにもう一人、14代を継ぐはずだった人がいました。当初、慶邦公には男の子がいなかったものですから、「四賢公」の一人、伊予宇和島藩の伊藤宗城(むねなり)公の次男を養子にとりました。宗敦(むねあつ)という方でしたが、慶邦公とともに戊辰戦争の責任を負わされて14代目を継ぐことができませんでした。

 その子どもの順之助は中国へ渡り、大陸浪人として活動します。檀一雄さんの小説『夕日と拳銃』の主人公、と言ったらご存じの方も多いかもしれませんね。

 1884年に華族令が制定されて、華族は公候伯子男の五つの爵位に分けられました。北海道に入植した分家の岩出山(いわでやま)伊達家や亘理(わたり)伊達家、片倉家は、開拓の功績が認められて男爵を与えられました。

 伊達家本家は、領地を減らされてはいたものの28万石ありましたが伯爵でした。一方、分家である伊予宇和島藩の伊達家は10万石ながらも侯爵です。爵位の上では、本家と分家の地位が逆転しました。これは、伊達家本家が戊辰戦争で明治政府に弓を引いたのに対して、伊予宇和島の伊達家は政府に貢献をしたからではないかと思っています。

 明治以降の伊達家は、皆、東京住まいでした。ただ、藩知事となった宗基はたびたび仙台へ戻りますから屋敷が必要となり、市内の一本杉町に土地を求めました。屋敷は15代邦宗のときに完成します。書院造りで、お客様と当主だけが使う表玄関と家族が使う脇玄関が並んでいる武家屋敷です。

 1947年に、昭和天皇が東北をご巡幸されました。その際、一本杉町の屋敷を一夜借りたい、との打診を宮内府から受けました。大変名誉なことですが、折悪しく、祖父の興宗が亡くなったばかり。ご遠慮申し上げました。けれども、ほかにふさわしい所がない、ということでしたので、結局、一夜の宿に使っていただくことになりました。

 どのように陛下をお迎えしたらよろしいか。このとき、家族でいろいろと相談したそうです。最終的には、仙台城の「上々(じょうじょう)段の間」にあった襖絵を屏風にあつらえて、陛下のお休みになるお部屋にしつらえました。陛下は、それをご覧になって、とても感銘あそばされた、と伺いました。

「上々段の間」については説明が必要かと思います。藩主が座る場所を「上段の間」と呼びます。床が高くなった座敷で、ここで家臣と対面します。「上々段の間」というのは、藩主よりも格上の方が座る場所、ということになります。

「上々段の間」は、伊達家の菩提寺である瑞巌(ずいがん)寺にもあります。そこには、明治天皇が東北ご巡幸のときにお休みになられました。

 政宗公は、仙台城と瑞巌寺を造られたときに、「いつかは帝を仙台にお迎えしたい」と思っていたのでしょう。その願いは数百年の時を経て、明治と昭和にかないました。<次号に続く>

(構成 本誌・横山健)

週刊朝日  2014年4月11日号

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