会場では、司馬遼太郎さんが黒田官兵衛を書いた『播磨灘物語』の文庫を買い求める人も多かった(撮影/写真部・小林修)
会場では、司馬遼太郎さんが黒田官兵衛を書いた『播磨灘物語』の文庫を買い求める人も多かった(撮影/写真部・小林修)
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パネリスト松本健一(麗澤大学教授)まつもと・けんいち/1946年、群馬県生まれ。評論家。2005年『評伝 北一輝』で司馬賞、『若き北一輝』『近代アジア精神史の試み』『昭和史を陰で動かした男』『原敬の大正』など著書多数(撮影/写真部・小林修)
パネリスト
松本健一
(麗澤大学教授)
まつもと・けんいち/1946年、群馬県生まれ。評論家。2005年『評伝 北一輝』で司馬賞、『若き北一輝』『近代アジア精神史の試み』『昭和史を陰で動かした男』『原敬の大正』など著書多数(撮影/写真部・小林修)

 司馬遼太郎さんをしのぶ「第18回菜の花忌シンポジウム」が2月1日に東京都文京区の文京シビックホールで開かれ、司馬ファンが駆け付けた。テーマは「この時代の軍師――『播磨灘(はりまなだ)物語』から考える」。NHK大河ドラマの主人公、軍師・黒田官兵衛を描いた司馬作品『播磨灘物語』について、磯田道史氏(静岡文化芸術大学准教授)、松本健一氏(麗澤大学教授)、和田竜(作家)、諸田玲子(作家)の4人のパネリストが活発な議論を展開した。

*  *  *
磯田:歴史学者にとって官兵衛で困るのは、「養生訓」を書いた貝原益軒という人が「黒田家譜」を書いていますから、われわれが見ている官兵衛は、3分の1は貝原益軒の思想が入っている。さらに『播磨灘物語』は貝原益軒と司馬さんと黒田如水の3人の考えの混じったものをわれわれは官兵衛像だと受け止めている。それをおいても、「黒田家譜」では、有岡城から帰ってきたら官兵衛が演説しなくなります。その前の官兵衛は、攻める前に「敵はこの方向からこういうふうに攻めてくる。兵力はいくらで、こういう状態だからどこかで破れる」と、全部しゃべる。これが有岡城に幽閉された後はしゃべらなくなる。たとえば秀吉に対して密談で、「殿、運の開きはじめですぞ」とかチラッとしゃべるようになる。知を外に見せない韜晦(とうかい)が始まり、自分を無にして、流れでやっている感じにしていく。私と同じ43歳には、彼はもう隠居です。早く隠れて、秀吉に殺されないようにと考えはじめます。

諸田:官兵衛は、自分が見えすぎたのです。信長や秀吉についても、読んでゆくうちに、官兵衛の見方が変わってくるのがわかります。あんなに「信長、信長」といっていたが、荒木村重の事件があり、比叡山の焼き打ちがあって、「信長の器量の悪さ」に気がつきます。官兵衛は次第に純粋な水のようになってゆき、すべてが見えすぎてしゃべらなくなった。見えすぎたからこそ、天下も取れなかったのでしょう。

磯田:官兵衛は、天下自体が目的ではなくて、自分の構想した計略を実験したらどこまでいけるかが知りたかったのでしょう。天下の主に本当になって、黒田家を生き残らせる執念で生きていない。家康と違う。官兵衛は自分の頭の中で、天下取り作戦を実行したらどうなるかという好奇心が強かったかもしれない。司馬さんが共感して書こうとした一つの理由じゃないかと思います。現代のオタクです。

諸田:山中伸弥教授とか、理系女(リケジョ)の小保方(晴子)さんじゃないですけど、一つのことを究めるけれど私欲がない。そういう点で私たちが官兵衛に魅かれるんだと思います。

磯田:富士山に登ろうとして登った人じゃないんですよ。富士山の前を飛んでいた蝶を追いかけているうちに自然に登っちゃった天才です。将棋指しとか碁打ちに似た人かもしれないと思います。ただ家族や家臣を守らなければいけないので、それは最低限やりましたけれど。

和田:今の磯田先生の話を聞いて、官兵衛は数学者だなと思いました。発想があるとそれを証明したくなるじゃないですか。だから、まずバーンという発想があって、それが実際に証明できるかと手順を踏みながら一つひとつ処理していくと思いながら聞いていました。しゃべれなくなることで思ったのは、剣術の下手な人ってやたら振り回す。上手になってくると相手の動きを覚えて、ポンとわずかな動きで敵を制する。ポイントの一言をある時点で言えばこっちに流れていくとわかったのかなあ、と今考えてました。

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