リベラリストを自任するジャーナリストの田原総一朗氏は、日本の右傾化の流れを止めたいと理由をこう語る。
* * *
私はいま、「リベラル」という言葉にこだわっている。私は、自分のことをリベラリストだと自任している。保守主義者ではないつもりだ。
だが、「リベラル」という言葉には夢がない、というか、魅力、おもしろさがどうも感じられないのである。
リベラリストが、どんなに言葉を費やしても、つまりは現状維持でしかないと思わざるを得ないのだ。そして私は、年寄りではあるが、現状維持ではなく変革を求めたい。
若いときは、時代の趨勢(すうせい)もあって、変革とは社会を左に揺さぶることだと考えていた。ざっくり言えば資本主義の社会を、社会主義の社会に変えることであった。ソ連や中国の社会主義が誤りであることは百も承知しながらも、左に揺さぶることで新しい地平が開けるのではないかと、いまにして思えば夢を見ていたのである。
だが、70年代には左に揺さぶっても展望がないことがわかり、社会が、そして少なからぬマスメディアが左に揺さぶる夢に浸っているのにいら立ち、懸命に引きはがそうとした。それこそがリベラルの使命だと考えていた。
そして90年代に入ると、ほとんどの人間が社会主義の夢から覚めた。現実主義、というよりも現状肯定となった。そして、左に取って代わるように、右への揺さぶりが、とくに若い世代に夢と映るようになってきたのではないか。
2月の東京都知事選では、「日本は核兵器を持つべきだ」と主張する元航空幕僚長の田母神俊雄氏が60万票余りを獲得。出口調査によれば、20代ではなんと、舛添要一氏に次いで2位となった。私を含めて年寄りの少なからぬリベラリストたちは若い世代の右傾化を嘆いているが、右傾化とは、いわば変革である。右傾化を嘆くリベラリストたちは、言葉はおびただしく並べても変革の手がかりを示せず、しょせんは現状維持に終始している。中には現在の競争社会に背を向けて、貨幣経済自体を否定するという変革を主張する人々もいるが、私にはそれに与(くみ)するほどの冒険心はない。
NHKの籾井勝人会長や経営委員の百田尚樹氏などの発言には少なからぬ違和感は覚えるが、率直に言えば、批判するだけむなしさを強く感じてしまう。
繰り返し記す。右傾化とは、まぎれもなく変革なのである。そして右傾化に対応するには右傾化でない変革の具体案を提示する必要がある。
昨年7月の参院選挙のとき、私は全野党の代表たちに「アベノミクスの批判ではなく、海江田ミクス、渡辺ミクス、橋下ミクスなど具体案を出すべきだ」と、しつこく主張したが、結局、批判しかできずに、野党は惨敗した。
高度成長の時代ならば、国民の多くは「批判」に耳を傾ける余裕があったが、失われた20年を経て、国民の多くは批判に関心を持つ余裕がなくなり、具体的な対案を強く求めるようになっているのである。
私のような年寄りは、右傾化を断固阻止する。たとえ、自民党の憲法改正草案にあるように「公益及び公の秩序に反し」て新しい憲法の下で罰されようと、言論・表現の自由を行使する。ジャーナリズムは「中立・公平」などではなく、インディペンデントであらねばならないのだ。
しかし、いくら私がこのように叫び立てても、若い世代は聞く耳も持ってくれないのではないか。
※週刊朝日 2014年3月14日号