元セゾングループ代表で「辻井喬」のペンネームで作家、詩人としても活躍した堤清二(つつみせいじ)さんが11月25日、肝不全のため死去した。86歳だった。流通業に現代美術や演劇、音楽などの文化事業を融合させた「セゾン文化」を生んだ人だった。
パルコの広告宣伝などで堤さんと40年以上にわたって親交のあったクリエイティブディレクターの小池一子さんが、堤さんの素顔や「無印良品」立ち上げ時の裏話を語った。
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堤さんの中には、企業経営者の側面と作家・詩人という文化人の部分が同居している感じでした。よく「出もの腫れもの所嫌わず」とおっしゃっていたのを覚えています。作品の発想は自然に生まれてくるものだということでした。
文化・芸術は主観的なものです。一方、企業経営は経済動向や業績などを冷静に見る客観性が必要です。堤さんはその客観性をも楽しまれていました。
いわゆる上流社会にあまり関心がなく、経営者としても「市民の生活をよくするのが総合生活産業だ」と一貫して口にされていました。その考えが明確に反映されたのが、スーパーの西友が企画開発・製造・販売を手がけたプライベートブランド(PB)「無印良品」の立ち上げでした。1979~80年のことです。
堤さんが考えたのは「毎日の生活に役立つものは、少しでも流通の中間マージンを減らして、消費者に安く手渡したい」ということでした。いわば、生協(生活協同組合)のような方向でしょうか。
こうした無印良品の発想には、堤さんの学生時代からの社会主義的思想があったと思います。新聞のインタビューにかつて、「共産党に入ったけれど、党内抗争に巻き込まれて除名された」と語っておられます。
ただ商品の価格が安いだけでなく、「いいものができる理由のある商品をつくろう」と。堤さん、西友の宣伝部の方、クリエイティブディレクターの田中一光さん、コピーライティングを担当した私などで、広告戦略について議論しました。
そして、堤さんの判断で、PB名はコピーライターの日暮真三さん提案の「無印良品」に決定しました。コピーは「わけあって、安い。」「しゃけは全身しゃけなんだ。」というものに決まっていきました。「われ椎茸」「鮭水煮」などの商品が初期のシリーズでヒットしたと記憶しています。
堤さんはその後もずっと、講演などで無印良品を応援されていました。私が最後にお会いしたのは、今年の夏です。ご自身の病気のことを話してくださり、「日本の治療技術は相当進んでいるから、すぐに死ぬことはないよ」と語っておられたんですが……。心よりご冥福をお祈りします。
※週刊朝日 2013年12月13日号