屋久島へ虫を採りに行った生物学者である池田清彦・早稲田大学教授。体力が落ちていることにショックを受けたという。
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狙っていたカミキリが採れなかったのはまあ仕方がないが、一番ショックだったのは体力が予想以上に落ちていることであった。
2日続けて片道4.5キロ、往復9キロの林道を歩いたら3日目には歩くのがイヤになった。久しぶりに長男を誘って前半は一緒に虫を採ったのだが、いやはや体力の違いには愕然とした。数年前にうんこすわりの体勢から片脚で立とうとしてかなわなかった時もショックだったが、虫採りに行けるのは長くてあと15年かと思うとちょっとさびしい。
親父が死ぬ数年前に何か用事があって手紙をくれて、その末尾に「わきて見む老木は花もあはれなり今いくたびか春に逢ふべき」との西行の歌が書かれていて、そんなことを言う奴に限って長生きするんだよねと、せせら嗤っていたが、親父には悪いことをしたと今にして思う。年寄りは早く死んだ方が世の中のためだ、なんて言っていても、実は主観的には自分は年寄りでないと思っているわけだから始末が悪い。走れば隣のホームの電車に間に合うと判っていても、階段を走って降りるのが怖くなった。立ったまま靴下を履くとふらつくようになった、という現実を前にすると、客観的には立派な年寄りだということは判っているんだけれど、頭は納得しないわけだ。これもボケの一種かも知れねえな。
養老孟司が60歳になろうという頃、私のかつての学生たち数人を連れて一緒にベトナムの田舎に虫採りに行ったことがあった。初めてベトナムに来た養老さんは宿の裏手の畑で虫を採っていた。畑には珍しい虫はいないことを知っている私たちは、「裏の畑の養老さんは、今年60のおじいさん。年はとっても虫採る時は、元気いっぱい網をふる」なんて歌いながらビールを飲んでいたっけ。
それから15年は瞬く間に過ぎて、養老さんは今年はラオスとコスタリカに行ったようだ。コスタリカの虫は面白いけど調べるには寿命が足りないとぼやいていた。ぼやくってことは、養老さんも主観的にはまだ年寄りだと思ってないってことだな。
つい最近、南伸坊が『オレって老人?』と題する本をくれた。伸坊さんは肺がんと診断されて、半年ぐらい「なんだ、もう死ぬのか」と思って、手術をすすめられてもぐずぐずと引き延ばしているうちに、勝手にがんが治った人だ。その間に奥さんと花見に行って酒飲んだのが、人生最良の時だったんだって。私を含めて体はみんな老人だけど、心は別なんだよ。
※週刊朝日 2013年8月30日号