独自の理論にもとづき、続々とベストセラーを出す慶応大学放射線科講師の近藤誠医師に対し、「根拠のないがんもどき理論を撤回せよ」と訴える医師が現れた。その人物とは、小説『白い巨塔』の主人公・財前五郎のモデルとなったとされる、大阪大学第二外科元教授で、かつて日本外科学会会長を務めたこともある医学界の権威、神前(こうさき)五郎医師だった。
面会した神前医師は、94歳とは思えないほど、しっかりとした話し方で、記者の質問に的確に答えてくれた。物腰はとても柔らかで、『白い巨塔』の財前五郎のような傲慢なところはみじんもなく、聡明で謙虚な印象を受ける。
神前医師は、大阪大学教授を1983年に退いたその年、東京都立駒込病院副院長に就任。翌84年から89年まで院長を務め、その数年後、大阪の自宅に戻った。現役を退いても、最新の論文を読むことを欠かさず、自らもいくつか論文を書くなどして過ごしてきた。そして、「もう医者としてやるべきことはすべてやり終えた」と思い始めたころ、近藤医師の「がんもどき理論」が目に留まったのだという。
では、近藤医師の「がんもどき理論」とはどんなものなのか。著書『がん放置療法のすすめ』の前書きには、こう書かれている。
〈すべての癌は「本物のがん」か「がんもどき」のどちらかに属し、「本物」は初発がん発見のはるか以前に転移しているのです。他方、がん発見当時に転移がない「もどき」は、放置しても(初発巣から)転移が生じないことが確認できました〉
近藤医師は、臓器転移があるがんを「本物のがん」、臓器転移がないがんを「がんもどき」と定義している。そして、本物のがんならすでに転移していて、手術や抗がん剤治療をするとかえって命を縮めてしまう。がんは放置したほうがいいと結論を導いている。
この「がんもどき理論」を知った神前医師は、「このままでは患者を誤解させてしまう」と危惧し、〈近藤誠氏著『がん放置療法のすすめ』を読んで〉と題する意見文を書き、8月3日発行される大阪大学外科学講座同窓会誌「絆刀」に発表することにした。その内容を一部抜粋する。
〈本物のがんとがんもどきの違いは他臓器転移を作るか作らないかの一点のみで、他の科学的な識別の方法、たとえば癌細胞の核異型度とか、gene signature(編集部訳:遺伝子サイン)とかについては一切言及されていない。また、癌が新しく発見された時点では、ほとんどの場合、がんもどきなのか、本物のがんなのか判別できないという。言い換えれば、がんもどきは形而上の概念であって、科学的実在とは区別すべきものである〉
〈この理論に従って胃癌の実態を解析したところ、すべての胃癌はがんもどき早期癌の時期を経て、次々と本物のがんとなり、癌死をもたらすというものであった。この理論と実態の乖離については、近藤氏に科学者(医師)として答を出していただく外ないだろう〉
強い論調で反論している。近藤医師が定義する「がんもどき」は、理念的なものであり、やがて転移して本物のがんに変化するものがあると、神前医師は主張する。がん放置療法は「がんもどき」が転移しないがんのままであるという前提で成り立っており、やがて転移して本物のがんに変化するのであれば、その理論は根底から崩れる。がん放置療法の条件を満たすために意識的に、経過の記述を省いているのであれば、その療法は〈虚構の産物〉だとも指摘している。
※週刊朝日 2013年8月16・23日号