『はだしのゲン』がなければ、被爆の悲惨な実態がここまで伝わってこなかったのではなかろうか。今年は週刊少年ジャンプでの連載が始まってから40年。作者の中沢啓治さんが昨年12月に亡くなってから、初めての夏となる。中沢さんにもマンガへの造詣の深さを認められた評論家の呉智英(くれともふさ)さんに「ゲン」への思いを語ってもらった。
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『はだしのゲン』は少年ジャンプの連載時から読んでいました。当時から「平和や反核へのメッセージ」というような政治的文脈で読まれることが多く、違和感を覚えていました。確かに原爆の悲惨さを告発していることは間違いない。とはいえ、そんな反戦、反核のアジビラみたいな単純な作品じゃない、と。
たとえばこんなシーン。画家を志していた青年、政二が被爆してヤケドを負い、優しかった家族からは「ピカの毒がうつる」と疎まれ、近所からも「おばけ」と不気味がられます。ゲンは1日3円の報酬で政二の身の回りの世話を引き受ける。ゲンがリヤカーに乗せて連れ出すと、政二は突然、自分の包帯を取り、「このみにくい姿をみんなの目の奥にたたきこんで一生きえないようにしてやる それがわしのしかえしじゃ」と、その姿を町民の前にさらすのです。政二にとって憎むべきは、原爆を落としたアメリカでも、泥沼の戦争を長引かせた日本政府でもなかった。程度の差こそあれ同じ被爆者である近所の人たちだったのです。
また、ゲンの妹で赤ん坊の友子が誘拐され、家族も家も失った被爆者たちが集まるバラック屋で「お姫さま」と崇められている奇妙な場面があります。大きな惨禍の後には、人々が助け合うつかの間の共同体「災害ユートピア」が生まれることは最近よく言われますし、「天罰が下った」「新しい世が来る」といった宗教的な熱情が人々の心を支配したりすることも実は往々にして起きるのです。
このように、「ゲン」には人間の汚さや醜さ、不条理な衝動や現象、心の影といったことに至るまで、被爆という悲しい現実が描かれています。大江健三郎氏は「被爆者による原爆体験の民話である」と評しました。表面的な報道、政治家や識者が語るきれいごとの平和論では触れられることのない民衆の現実。それが、作品の魅力となって読む人の心を引き付けるのです。
そんな持論を以前から語ってきたものの、中沢さんが作品に込めたメッセージとはズレているかもしれない、と懸念していました。ところが、中沢さん直々のご指名で『ゲン』の文庫本などの解説を書かせてもらったんです。「あの人はマンガっていうものをわかっている」と言ってくれたと編集者を介して聞いたときは、素直にうれしかった。
中沢さんには一度もお会いできませんでした。非常に残念です。もしお話しする機会があったら、ファンとして、マンガマニアとして、看板屋で働きながらマンガ修業をしていたときのこと、上京して「タイガーマスク」の漫画家・辻なおき氏のアシスタントをしていた若き日の思い出なんかを聞いてみたかったなあ。
※週刊朝日 2013年8月9日号