早稲田大学国際教養学部教授の池田清彦氏は、日本が採用している「民主主義」について「何を母体集団にみなすかによって変わる」といい、オスプレイを例に出して次のように話す。
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評論家の呉智英が近刊の『健全なる精神』(双葉文庫)と題するエッセイ集のまえがきで、民主主義は少数者の立場を尊重する思想などでは決してなく、多数者の立場を少数者に押しつける思想に決まっている、と述べている。まあその通りなのだが、問題は何を母集団とみなすかによって、民主主義的決定は正反対になってしまうことだ。
たとえば、オスプレイ。沖縄県民はオスプレイの沖縄への配備に反対して10万人規模の集会を開いた。民主主義の母集団を沖縄県民と考えれば配備は民主主義に反することになる。一方、母集団を日本国民と考えれば、民主主義によって選ばれた政府は、オスプレイの配備を是としているわけだから、この観点からは民主主義に必ずしも反しているとは言えない。
政府はアメリカの言いなりにオスプレイの墜落は人的ミスと言っているが、人間にミスはつきもので、少しのミスで事故を起こすものは安全とは言えない。民主主義は、集団の意思決定の方法として他のやり方よりもましというに過ぎず、人々が安全に暮らす権利は、理念的には民主主義より上位の審級(価値判断の基準)なのだ。このことを理解しないと、民主主義は暴力装置になってしまう。本当に安全ならば、東京の上空を毎日飛んでみたら、と沖縄の友人は言っていたが、もっともだと思う。
※週刊朝日 2012年10月12日号