長嶋巨人が始動した1975年の宮崎キャンプ。背番号90の長嶋茂雄新監督とともに話題をさらったのが、“堀内恒夫以来の金の卵”と謳われた期待のドラ1ルーキー・定岡正二だった。
前年夏の甲子園大会では、鹿児島実のエースとして初戦から2試合連続完封を記録するなど、鹿児島県勢初の4強入りに大きく貢献。中でも、準々決勝で原辰徳ら強打者を揃えた東海大相模を延長15回の末、5対4で下した3時間38分の大熱戦は、今も球史に残る名勝負として語り継がれている。
この試合は、34パーセントの高視聴率をマークしたにもかかわらず、NHKが19時でテレビ中継を打ち切ったため、全国から「なぜ最後まで放映しないのか?」の抗議が殺到。これを受けて、翌年から教育テレビ(現Eテレ)とのリレー中継が導入され、テレビ中継のあり方をも劇的に変えた。
一方、地元・鹿児島放送局も、県民の怒りの抗議で5台の交換機が鳴りっぱなしになったため、急きょ中央放送局と協議のうえ、「連想ゲーム」などの放映を中止し、ニュース終了後の19時20分から同37分の試合終了まで中継。「局始まって以来の事件」として“伝説”になった。
定岡人気は、準決勝の防府商戦でさらにヒートアップする。この試合で、定岡は3回の本塁クロスプレーの際に右手首を負傷し、無念の途中降板。エースを欠いたチームは、悪夢のようなサヨナラエラーで敗れるが、試合後、右手を包帯でグルグル巻きにした定岡が、エラーをして泣きじゃくる中堅手を慰める姿が女性ファンたちの胸を打った。「負けてもいいから、最後までマウンドに立っていたかった」とコメントした“悲劇のヒーロー”は、元祖甲子園のアイドル・太田幸司と並び称されたイケメンルックスも相まって、一躍時の人になった。
鹿児島に帰ったあともフィーバーは続く。西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)には、ホームから駅前広場まで1万人を超える出迎えの市民が集まり、「定岡さーん、こっち向いて!」の大騒ぎに。「『鹿児島県 定岡正二様』の宛名だけで手紙が届いた」「24時間自宅の電話が鳴り止まないため、座布団を5、6枚かぶせて音を小さくした」「自宅の前に観光バスが停まった」等の仰天エピソードも枚挙にいとまがない。