この発言に対しては多くの人が戸惑いを感じていたし、明らかにおかしいとか理不尽だと思う人もいたようだ。以前から上沼の審査員としての立ちふるまいに違和感を持っている人は多い。審査員は出場する芸人よりも出しゃばるべきではないというのだ。確かにそれも一理ある。

 だが、上沼の上辺のパフォーマンスを抜きにして、発言内容だけをなぞってみると、審査員として筋の通った評価を下していることが分かる。彼女がそのような波風の立つ発言をする背景には「ほかの人が言いにくいことをあえて言語化する」という意識があるように見える。

 和牛に対する苦言もそうだ。「M-1」は出場者にとっては人生をかけて挑むものであり、その気迫や意気込みが見ている人にも伝わってくるのが醍醐味である。だが、何年も連続で決勝に進み、涙を飲んできた和牛は、もはやそのように熱くなる段階を超えて、平常心で「M-1」に挑む境地に達していた。それ自体は間違いでも何でもない。

 ただ、上沼は、和牛のそのような態度が人々の「M-1」に期待するものとは違うということをわざわざ指摘したのだ。勝負への意気込みが伝わってきたからし蓮根を持ち上げるために、すでに押しも押されもしない評価を得ている和牛をあえてくさしてみせたのだ。

 彼女はこのように嫌われ者の役を引き受けることに躊躇しない。なぜなら、その方が結果的に場が盛り上がるからだ。上沼は1人の芸人として、責任を持って審査を行うと同時に、場を盛り上げることを自らの使命としている。

 暴言騒動が起こったとき、彼女が「気にしていない」と一蹴したのも、芸人としては当然のことだ。このとき、上沼に同情して、彼女を気遣う者こそが笑いの大敵である。

「芸人は同情されたら終わり」というのはお笑い界の普遍的な原則だ。「かわいそう」とか「心配だ」などと思われてしまったら、芸人は手放しで笑ってもらうことができない。芸人はただ笑いだけを求めている。その妨げになるようなことは一切不要なのだ。

「M-1」は人気番組なので、普段お笑いを見慣れていないような人も目にすることになる。ここで悪役を演じて場を盛り上げるのは、彼女にとって重要な仕事だ。好感度をドブに捨て、あらぬ誤解を招いてでも、彼女は芸人であり続けようとした。

 上沼は暴言騒動を乗り越えたのではない。暴言騒動で作られた「彼女に対する同情的な空気」を乗り越えたのだ。それこそが彼女の本当の敵だったのだから。(ラリー遠田)

暮らしとモノ班 for promotion
2024年の『このミス』大賞作品は?あの映像化人気シリーズも受賞作品って知ってた?