「権力機構が腐っているときに、ジャーナリズムまで信用を失ってしまったらこの国は終わる。何だかもうやりきれない」
前夜、官邸記者クラブの各社キャップ(毎日新聞除く)と安倍晋三首相が中華料理店で会食をしたことに対するやり場のない怒りの吐露だった。政治部記者からもあった。なかには悔し涙を流している記者もいた。
<この懇談は市民とメディアの間をまたもや引き裂いた。市民に信頼される報道を目指して頑張っている記者の心を折れさせていくメディアの上層部の意識って何なんだ>
21日夜、「#私たちこのままでいいんですか」とハッシュタグをつけて私がツイッターでつぶやくと瞬く間に広がった。
この首相との懇談は会費制だ。会費は「桜を見る会前夜祭」よりも高い1人6000円。首相への日常的な質問の機会すらなくなるなか、出席して取材したいという気持ちはわかる。疑惑の渦中にいる首相がどんな表情で何を語るのか。同席する首相周辺の振る舞いも含めて観察対象としては興味深い場面だ。
でも、実施の前提は、記者クラブとして首相が公式に市民の疑問に答える記者会見などの場をしっかり行うことである。それすらできていない状況で、非公式の懇談実施を先行させたことによって、市民からメディアは「共犯者たち」と映った。
市民の不信感を利用してメディアの力を弱めようとする政権側の術中にはまってしまったと言わざるをえない。大局的な判断ができず、キャップを懇談に参加させた幹部の罪は重いと思う。
情報革命が進むなかで既存メディアのモデルは崩れた。
一方で、権力側は官邸への一極集中を実現し、SNSなどを駆使して市民に直接情報発信できるようになり、さらにはメディアに対する統制も強めている。『報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったか』(朝日新書)で描いた実相だ。
フェイクが氾濫し、民主主義が壊れていくなか、メディアが「権力の監視役」としての役割と力を取り戻すためには、市民との関係を再構築しなければならない。
変われるのか、そのまま沈むのか。オリンピック・パラリンピックで日本社会に国際的な注目が集まる2020年は、メディアにとっても大きな岐路に立たされる年になるだろう。新聞労連の合言葉は「ネクストジェネレーション」。次世代が思い切ってジャーナリズムを全うできる環境をつくるため、勝負の年になると考えている。(新聞労連委員長・南彰)