築地市場には国鉄のほか、都電の貨物電車も一時乗り入れていた。1941(昭和16)年、日中戦争の激化や太平洋戦争の開戦に伴い、ガソリンの供給事情が悪化したためトラック輸送が立ちいかなくなった。そのため東京市電気局(43年の都政施行により東京都交通局に転換)は、市電築地線の築地4丁目停留場からいまの新大橋通り上に汐留方面へ向けて軌道を敷き、旧青果門から市場内へ貨物電車を運行した。都電による貨物輸送は戦後の49(昭和24)年まで続けられ、56(昭和31)年に正式に廃止されている。

 1945(昭和20)年の太平洋戦争終結時、国鉄には2000両ほどの冷蔵貨車があった。しかし、うち600両が進駐軍(連合国軍)に接収されたため、冬季における築地市場への鮮魚輸送は、一般形の有蓋(ゆうがい)貨車によるケースが多かった。鮮魚輸送は、箱に氷を詰めて運ぶ「抱き氷」と呼ばれるスタイルだったが、とくに問題は起きなかったという。

 道路の整備によって鮮魚のトラック輸送への置き換えが進んだ1966(昭和41)年、国鉄は劣勢挽回への切り札として、最高時速100キロメートルでの高速運転が可能な鮮魚特急専用冷蔵貨車・レサ10000系の製造・投入を開始した。この車両のみを連結して同年10月、山陽本線の幡生(はたぶ=山口県下関市)~東京市場間に「とびうお」、博多港~大阪市場間に「ぎんりん」の愛称を付けた鮮魚専用列車の運行が開始された。

 幡生・博多港の両駅には下関や長崎など、周辺各地の漁港の最寄り駅からレサ10000系貨車が集められ、「とびうお」「ぎんりん」として連結されて東京・大阪の両市場駅を目指した。幡生を午前7時に発車した「とびうお」は、日付をまたいだ午前1時過ぎに東京市場に到着。当時のトラックで24時間以上かかった下関~東京間を、約18時間で結ぶ俊足ぶり。そのスピードは寝台特急列車「ブルートレイン」に匹敵し、「絶対に築地の朝の競りに遅れさせてはならない」と、常に最優先扱いでの運行がなされていたという。

 レサ10000系のうちレサ10000形は24t、車掌室付きのレムフ10000形は16tの貨物を積めた。「とびうお」は、山陽本線瀬野~八本松間の急勾配区間を抱えた下関~姫路間を13両、姫路で7両を増結して東海道本線を経て東京市場へ向かい、「ぎんりん」は12両で下関~大阪市場間を運行した。1968(昭和43)年10月の「ヨンサントオ」ダイヤ改定で、強力なEF66形電気機関車が投入されて以降は、「とびうお」が全区間を20両、「ぎんりん」が18両で運行されるようになった。

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鮮魚の輸送の変化で築地市場駅も廃止に