さて、ここまで貴族だの武士だのと書いておきながらアレなのだけれど、小説『カザアナ』の舞台はそんなに遠い過去ではない。むしろ未来だ。今からおよそ二十年後の日本で、遙か昔に一度は断たれた風穴たちの特殊能力が甦る。リアリティを求めつつ、一方でしゃかりきにエンターテイメント性を追っているうちに、こんなややこしい設定になってしまった。

 少し先の未来に舞台を据えたのには理由がある。二〇二〇年の東京オリンピックが幕を閉じた後、果たして日本はどうなっていくのか。刻々と迫りくる祭りに盛りあがる一方で、その「祭りの後」への不安を誰もが心に忍ばせている気がする。いったい五輪景気はどこまで伸び、いつまで通用するのか。その次は何に期待を転換すればいいのか。日本の国際競争力は落ちる一方で、少子化も進んでいくばかり。ついには金融庁までが年金は当てにならないと言い出した。未来を憂うネガティブな要素には事欠かない中で、監視社会化の傾向も私には気になる問題の一つだった。

「時代の閉塞感」という言葉は昭和も平成もよく耳にした。だから、この重く息詰まるような空気は今に始まったものではないのだろう。が、各種センサーや顔認証を用いた監視システムの拡大など、AI技術の進歩によって国民の管理体制が新しい形で強化されていけば、令和の世にはこれまでと次元を異にした閉塞が生まれる可能性はある。宙に耳あり、天に目あり、の時代だ。二〇一九年現在、すでに中国では危険分子と見られる住民に対し、AI技術を駆使した徹底的な監視(銀行やオンライン上の取引から電気使用量に至るまで)が行われているという。マイナンバー制が導入されたとき、なんかいやだなと感じた方は多いと思うが、日本も対岸の火事ではない。

 かくも憂わしき未来像に対して、既に警句を発している人々もいれば、国民のプライバシーを守るべく活動をしている人々もいるけれど、小説家の私は小説を書くしか能がない。せめて小説にしか出来ないやり方で、日本の薄暗い未来像にいくらかの風を送りこむことができないものかと考えた。

 汲々とした日常に緩みをもたらす風。そこに求められるのは強さではなく、軽みだと思う。よって、平安時代の風穴に起源する由緒正しき特殊能力を、令和のカザアナたちは至極バカバカしい形で発揮する。

 そう、私はときどき無性にバカバカしい話も書きたくなる。理由は言わずもがなだ。この世があまりにも深刻なことに充ち満ちているから。(「一冊の本」7月号「巻頭随筆」より)

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