当時の歌舞伎町は人いきれに包まれた街だった。昭和31年(1956年)には歌舞伎町のランドマークとなる新宿コマ劇場が完成。最新の映画や流行の演劇、演歌歌手やキャバレーの女の子を目当てに、若者や年配層を問わず街に押し寄せていたという。

「店がオープンした当時は新宿駅の東口から歌舞伎町まで、人の頭で真っ黒に埋め尽くされているような風景の毎日でした。ウチのお店も人であふれていて、最盛期で1日で300人くらいは入ったことがあると記憶しています。当時は娯楽も少なく、クラシック音楽を良いスピーカーで聴くことが娯楽だったので、満席で座れなかったお客さんが店の階段に座って音楽を聴いていたんです」

 100席以上のスカラ座を滞りなく営業するため、従業員も最盛期はドアマンやレジ、フロント、レコード係など26名に及んだ。24時間営業だったオープン当初は、クラシックを聴きに来る人に混じり、朝には学生やサラリーマン、昼にはデート前のカップルや休憩中のサラリーマン、夜には同伴のホステスやヤクザなどの客で賑わっていた。

■バブル景気、そして崩壊

 人波であふれていた昭和の歌舞伎町だったが、平成に入ると街の様子が徐々に変わり始めたと林さんは回想する。

「バブル期に、それまで『名曲喫茶』だったスカラ座の看板を『CAFE』に変えました。時代の変化によって、スカラ座が音楽を聴きに行く店から、カップルのデートの場になったり、同伴の場になったり、暴力団員の打ち合わせの場に変わっていったこともその要因です。とはいえ、早慶戦やメーデーの日には学生や労働者で、店は相変わらずにぎわっていました」

 平成の時代に入りバブルが崩壊する。再開発の波が押し寄せる中、歌舞伎町は変わらず怪しい魅力を保ち続けたように見えていた。しかし、林さんは変貌を遂げる歌舞伎町に心が離れていくのを感じていたという。街には暴力沙汰などのトラブルを処理する警察の姿が目立つようになり、それに対応するように50台という異様な数の監視カメラが街に設置された。

「悪質なキャッチが横行し、ぼったくりのお店が続出しました。それに対して防犯の垂れ幕やのぼりが通りにあふれ返る。歌舞伎町はこういう街じゃない、と感じ始めたのです」

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コマ劇場も姿を消した