教科指導が嫌で仕方がないというならば、これは一刻も早く教壇を去ったほうがよいだろう。だが部活動指導が苦しいというのは、教科指導の専門家として、しっかりと尊重されるべき意見である。労働者としても、時間外労働というかたちで、土日を含めて毎日数時間が費やされる部活動指導を問題視するのは、まっとうな主張である。ところが「それは一部」にすぎないと、同僚たちから反論される。
そもそも「ブラック企業」もまた、どこか一部の企業のことである。もっといえば、いじめや不登校、台風、震災、原発など、ほとんどすべての教育問題・社会問題は、一部の人や場所に限定された課題にすぎない。それを、みんなで考えるのが、教育問題・社会問題というものだ。
「それは一部」であるのは当然の事実であり、何も説明していないに等しい。そこから見えてくるのは、「それは一部」と過小評価し、「だから聞くに値しない」と一蹴する姿勢である。きわめて危険な態度である。
■教師間いじめの見えにくさ
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きっとすべての教員は、いじめや不登校については、「一部」だといってフタをすることはないはずである。みんなでどう考えていくべきかという問いを、立てるだろう。
集団全体で物事を進めるというのは、教員がもっとも得意とすることの一つである。だが当の指導に熱心なあまりに、批判の声を聞くと、つい「それは一部」とフタをしたくなってしまう。同僚は助けてくれるどころか、むしろ攻撃をくわえてくる。
この事例に限らず、教員が教員に対して怒鳴ったり、脅したりするというケースを耳にする。暴言だけではなく、会っても挨拶されない、集団で無視される、陰口を言われる、子どもたちがいる前で同僚から大声で叱責されるなど、教員の間にも程度の差こそあれ、さまざまなハラスメントがある。
これら「教師間いじめ」のケースは、教員の愚痴や嘆きとして、近しい立場の者が耳にすることはあっても、それが公に語られたり、調査が実施されたりすることは、ほとんどない。教師間いじめの現実は、教師=聖職者という幻想のなかで消える化していく。
誤解を恐れずに言うならば、教員だって人間である。小中高以外の職場でも、たとえば大学教員のなかにも同僚に怒鳴りつける人はいるし、民間企業の従業員の間でもいじめがある。それらと同様に、教員の間でもいじめがある。
とは言え、子どもにいじめ防止を説きながら、同僚の間でいじめが起きているようでは、あまりに不健全である。さらに言えば、同僚間でのいじめが容認される職場において、子ども間のいじめや、教員から生徒へのハラスメントが抑止されるはずもない。学校ハラスメント全体の改善のためには、教師間いじめの見える化と抑制もまた、重要な着眼点である。(文/名古屋大学准教授・内田良)