例えば、ある絵があったとして、「美しい」って思う人もいれば「よくわからない」って思う人もいる。あるお笑い芸人のネタを見て「おもしろい」って言う人もいれば「おもしろくない」って言う人もいる。こうやって、人それぞれ違う感想を持つってことは「美しい」とか「おもしろい」っていう「ものさし」が全員違うってことなんだ。
それは当たり前じゃん、って思うかもしれないけど、それを本当に理解していたらいじめは起こらないと思うんだよね。いじめが起きる要因の一つにあるのは、いじめっこの「ものさし」にハマらないから気に入らなくて八つ当たりする、ってことだと思うから。みんな別々の生き物だ、ってしっかり理解しないといけないと思うんだ。
大人の世界もそう。ランキングとか営業成績とか再生回数とか、数字っていうのはすっごくわかりやすいから大人たちはそれを基準にして、そうでないものは「よくないもの」って見方をする人がいる。でもたとえ再生回数が5回の動画でもそれで救われる人がいるかもしれないし。数字はひとつの基準にはなるけれど、それにばかり囚われてしまうのもあまりよくないんじゃないかな、って思う。ちなみによしおの野菜の歌の再生回数は少ないんだけど気にしていないよ! この歌で野菜が食べられるようになりましたって子が何人もいるからね。
■逃げではなく選んだんだ
いじめを経験した精神科医、中井久夫さんがいじめを分析して書いた『いじめのある世界に生きる君たちへ』っていう本も読んだ。そこには、「いじめには三段階ある」って書かれていたんだ。相手をひとりぼっちにさせる「孤立化」、抵抗しても無駄だと思わせる「無力化」、いじめなんてないってみんなが錯覚する「透明化」って、先生は分析していた。
孤立化のときに、いじめっこは周囲の人にPR作戦というものをするらしいんだ。「こいつにはいじめられる理由があるからいじめているんだ」みたいなね。例えば「あいつは足が遅い」「あいつはニキビがある」とか。「だからおかしいよな」って言って、孤立に追い込むんだ。そしてこれは、先生も巻き込んでしまう。「この子のここをおもしろがると受けるのか」ってね。そしていじめられた側は「だから自分はいじめられるんだ」っていう理由づけにしてしまうっていう仕組みらしいんだ。よしおはネットニュースのコメント欄にも同じ構造を感じているよ。いじめの加害者になってしまってることに気がついてない人も多いんじゃないかな。
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