江戸城内堀を前景にして日比谷通りを走る都電を狙った一コマ。夏の陽を浴びたルネサンス様式の「帝国劇場」と「東京會舘」の威容が明治の余韻を伝えてくれた。日比谷公園~馬場先門 (撮影/諸河久:1963年8月18日)
江戸城内堀を前景にして日比谷通りを走る都電を狙った一コマ。夏の陽を浴びたルネサンス様式の「帝国劇場」と「東京會舘」の威容が明治の余韻を伝えてくれた。日比谷公園~馬場先門 (撮影/諸河久:1963年8月18日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。夏の季節にちなんだ「路面電車 夏の足跡」の第三回目をお送りしよう。

【今では見られない1982年の同じ角度からの貴重な写真はこちら】

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 東京は7月に入って傘が離せない本格的な梅雨が到来した。東京都内だけではなく、日本国内、そして海外にもコロナ禍が収まらないという難局を抱えている。世界中の憂鬱な気分が解消し、オリンピックゲームが幕を開けることを願っている。

 夏の太陽が輝く都会の街角を一陣の涼風のように走り去った路面電車たち。各地に残した足跡を夏の風情と共に回顧したい。

江戸城内堀を巡る都電撮影と半自動絞り方式の交換レンズ

 旧盆の残暑が厳しい日曜日の午後、涼風を求めて日比谷公園界隈を散策し、走ってくる都電にカメラを向けている。冒頭の写真は、日比谷公園北側の晴海通りから皇居外苑にあたる江戸城内堀の石垣を絡めて、日比谷通りを走る都電をフレーミングした一コマだ。

内堀の様子は十年一日のように変わらないが、都電の消えた街並みは大変貌を遂げていた19年後の定点撮影。(撮影/諸河久:1982年11月28日)
内堀の様子は十年一日のように変わらないが、都電の消えた街並みは大変貌を遂げていた19年後の定点撮影。(撮影/諸河久:1982年11月28日)

 日比谷通りに敷設された神田橋線(日比谷公園~神田橋)は、2、5、25、35、37の五系統が行き交う都電のメインルートの一つで、画面には日比谷公園を後に馬場先門に向かう35系統巣鴨行きの都電が写っている。

 このカットは高校時代の愛機「アサヒペンタックスSV」にオートタクマー105mmF2.8を装着して撮影している。「オートタクマー」とは旭光学から発売された半自動絞り方式の一眼レフ用交換レンズ。半自動絞り方式レンズの撮影は次のような手順だった。

1. 撮影F値をレンズの絞りリングにセットする。

2. レンズの胴元のレバーを左に回すと絞りが開放値(f2.8)になる。ファインダー内の照度が明るくなるので、ピントワークが容易になる。

3. フレーミングを決めて、シャッターボタンを半分押すと、あらかじめ設定した絞り値に戻り、もう一度押すと、シャッターが切れる。(瞬時にこの所作を行うと、絞りが絞られた状態で、ファインダーが暗くなったまま撮影が終了する)

「オートタクマー」の絞り方式は、次世代の自動絞り方式レンズ「スーパータクマー」が開発されるまでの過渡期の絞り方式だった。連続撮影には全く不向きだったが、当時は一発必中が写真撮影の定番で「連写」するといった発想は皆無だった。

渋沢栄一らの尽力で完成した白亜の「帝国劇場」

 都電の背景に位置する日比谷通りの東側には「帝国劇場」、その左に「東京會舘」の優雅なルネサンス様式の建築美を鑑賞することができた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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