「博物館明治村」で動態保存される京都市電。オープンデッキの運転台、腰羽目を絞り込んだ二段屋根の車体など、明治の面影を伝える貴重な路面電車。(撮影/諸河久:2008年5月18日)
「博物館明治村」で動態保存される京都市電。オープンデッキの運転台、腰羽目を絞り込んだ二段屋根の車体など、明治の面影を伝える貴重な路面電車。(撮影/諸河久:2008年5月18日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回から特別編で、「単車」と呼ばれた四輪で走る路面電車の話題だ。

【1945年の空襲で焼失…路面電車の始祖でもあるスプレーグ式電車の貴重な写真はこちら】

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「単車」といってもオートバイのことではない。

 二軸車とか四輪車と呼ばれる単台車(シングル・トラック)を装備した路面電車の呼称である。広い意味では、鉄道創業時代のマッチ箱客車や貨車などの二軸車も単車の範疇に入る。しかしながら、「単車」は車体を揺らしながら街中を走る路面電車にマッチした愛称だろう。

単車のルーツと動態保存される京都市電

 「単車」のルーツは、1890年に東京上野で開催された「第3回内国勧業博覧会」に我国で初めての電車が出展された時に遡る。これは「スプレーグ式電車」と呼ばれ、東京電燈会社の藤岡市助技師長が留学先の米国から持ち帰った路面電車仕様の「単車」だった。軌間は鉄道馬車と同じ1372mm、電車線電圧500Vで、全長7.3m、乗車定員22名の小型車だ。

 黎明期の路面電車は「スプレーグ式電車」を祖先とする「単車」の導入が定番だった。東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の六大都市では、初めて走った路面電車は例外なく全て単車であり、20世紀初頭の都市交通を代表する存在だった。

 冒頭の写真は、博物館明治村で動態保存される旧京都市電北野線の路面電車。正面にガラス窓のない吹きさらしの運転台、客室の腰羽目を絞り込んだ木造車体、モニタールーフと呼ばれる二段屋根、台車はブリル21E型単台車を履くなど、スプレーグ式電車のスペックを踏襲し、明治期の路面電車の面影を忠実に伝える貴重な復元車両だ。

 屋根上中央に設置されたトロリーポールによる集電で、終端地に到着すると車掌がトロリーコードをつかんで180度回転させる「ポール回し」と、手用ブレーキを見事に捌く光景は一見に値する。

 北野線で使われた車両の出自は「1895年に本邦初の営業電車を走らせた京都電気鉄道(後年・京都市に買収)が、梅鉢鉄工場(後年・帝国車両工業→東急車輛製造)に発注し、1910年~1911年に製造された」と同門の大先輩、吉川文夫氏は推定されている。ちなみに、京都市電北野線は京都駅前~北野6300mを結び、電車線電圧600V、軌間1067mmの路線で、京都市電唯一の狭軌線だった。市電創業期に製造された標準軌間の1型と京都電気鉄道を買収した(北野線)1型の付番と重複したので、北野線の1型をナローゲージの頭文字Nを付けてN1型と改番した経緯がある。このため、北野線の路面電車を通称「N電」と呼んでいた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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