金沢市内線のお目当ては「青電車」だった。1932年・藤永田造船製の高床式四輪単車で、救助網を取り付けた古風なスタイルをしていた。ループ式だった金沢駅前の一コマで、写真の6系統は金沢駅前から兼六園下を結んでいた。(撮影/諸河久)
金沢市内線のお目当ては「青電車」だった。1932年・藤永田造船製の高床式四輪単車で、救助網を取り付けた古風なスタイルをしていた。ループ式だった金沢駅前の一コマで、写真の6系統は金沢駅前から兼六園下を結んでいた。(撮影/諸河久)

 市内線電車の塗色は前述の200・300・310型の四輪単車がダークグリーン一色(なぜか愛称は青電車)で、2000型以降のボギー車は北陸鉄道の標準色である朱色とクリーム色の塗り分けだった。

■夕闇の野町駅前

 百閒堀を撮影後、1系統と3系統が走る出羽町に移動する。ここは兼六坂と呼ばれる勾配路線で、坂下から望遠レンズで覗くと、坂上に浮かび上がる電車のフォルムが東京都電・霞町線の笄坂(こうがいざか)を彷彿とさせてくれた。大晦日の日暮れは早々と迫って、一電車撮るたびに暗くなる。露光値はどんどん落ちてゆき、ASA100(現ISO100)のコニパンSSフィルムの撮影が辛くなってきた。

東京オリンピックで賑わった1964年もあと数時間で終わろうとしていた。この撮影が1964年のラストショットとなった。野町駅前(撮影/諸河久)
東京オリンピックで賑わった1964年もあと数時間で終わろうとしていた。この撮影が1964年のラストショットとなった。野町駅前(撮影/諸河久)

 この年最後の撮影地を北陸鉄道石川線の接続地である野町駅前に定め、夕闇の中で電車の到着を待った。夜景のカットは、乗降中の2200型が周囲の商店の明かりに浮かび上がるシーンを狙った一コマだ。シャッター速度は手持ち撮影の限界である1/8秒にセット。手ブレ防止を念頭に置いて、肩の力を抜いて慎重にシャッターを切った記憶がある。

■金沢市内線の廃止

 北陸鉄道金沢市内線は金沢電気軌道によって1919年に開業した。軌間は1067mm、電車線電圧は600V。金沢市内に5路線を擁し、営業距離は19.9kmであった。石川県内の私鉄は戦時中の国策で「北陸鉄道」に統合され、北陸鉄道金沢市内線になった。モータリゼーションの到来で赤字経営に陥り、1967年2月に全線が廃止された。
 
 北陸地方の福井市、高岡市、富山市の路面電車は一部路線が短縮されたものの、地球に優しい乗り物として再評価され、令和の今日も市民の足として活躍している。

 結果論かも知れないが、1967年時点の金沢市内線全廃はあまりにも拙速で、モータリゼーションの波を制御しきれなかった企業と行政が犯した大きなエラーだった。

■撮影:1964年12月31日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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