成子坂下停留所から神田川を渡ると中野区の東端だ。山手通りと交差する中野坂上交差点を走る14系統荻窪駅前行きの都電。背景の家並が驚くほど低い。 成子坂下~本町通二丁目(撮影/諸河久:1963年6月9日)
成子坂下停留所から神田川を渡ると中野区の東端だ。山手通りと交差する中野坂上交差点を走る14系統荻窪駅前行きの都電。背景の家並が驚くほど低い。 成子坂下~本町通二丁目(撮影/諸河久:1963年6月9日)

 妙法寺から環状七号線を挟んだ北東側には、都電の停留所名にもなった「農林省蚕糸試験場」がある。戦前、蚕糸試験場前は妙法寺口と呼ばれ、妙法寺参拝の善男善女で賑わったという。

 蚕糸試験場は、明治期から日本の重要産業である蚕糸業をリードする拠点だった。1911年に建設された洋風建築の本館と煉瓦造りの正門との調和が美しかった。1980年、蚕糸業の衰退と機構改革で、茨城県つくば市へ機能を移転した。現在、蚕糸試験場の跡地は「蚕糸の森公園」と「杉並第十小学校」になっている。

■高層ビル街に変貌した中野坂上交差点

 別カットは、都電が走る青梅街道と山手通り(環状6号線)が交差する中野坂上交差点に差し掛かる14系統荻窪駅前行きの都電だ。この道路の真下に営団地下鉄・荻窪線(現東京メトロ・丸ノ内線)の中野坂上駅があり、新宿~新中野間は荻窪全通に先立ち、1961年2月に開通している。オープンカット方式の板張り道路が仮復旧された青梅街道は、撮影した1963年になっても、本復旧には程遠いガタ道路だった。

 画面右手に本町通り二丁目の停留所があり、同じ場所に乗降口がある営団中野坂上駅と好対照の存在だった。都電杉並線は荻窪線(現丸ノ内線)が荻窪駅まで全通した1962年以来、乗客が地下鉄に推移いたため、急激に衰退の道を辿った。撮影から半年後の1963年12月に、都電廃止の先鋒として廃止されている。

 都電の背景には背の低い木造家屋が連なって、大和證券の横看板の下には「東京写真短期大学」の案内板が見えている。東京写真短期大学(現東京工芸大学)は画面右奥の坂を下った本町二丁目に中野キャンパスが所在する。1923年の創立で「写大」と呼ばれていた。本年文化勲章を叙勲された田沼武能氏を筆頭に、多くの写真家を輩出している。

 中野坂上交差点は近年になって都営地下鉄大江戸線も開通。既存の東京メトロ丸ノ内線・方南町支線と連絡する交通の要衝に成長した。昭和の香りが感じられたかつての街並みは、高層マンションやオフィスビル街に変貌した。都電が走った時代には停留所もあった「鍋屋横丁」の商店街が隆盛だったが、令和の時代を迎えると、人の流れは「中野坂上」に推移しつつあるようだ。

■撮影:1963年4月29日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など多数がある。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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