青梅街道に一直線に敷かれた電車道を、荻窪駅前に向かって走る14系統の都電。蚕糸試験樹前~杉並車庫前(撮影/諸河久:1963年4月29日)
青梅街道に一直線に敷かれた電車道を、荻窪駅前に向かって走る14系統の都電。蚕糸試験樹前~杉並車庫前(撮影/諸河久:1963年4月29日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は杉並区と中野区を走る都電だ。

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「練馬区には都電が走っていなかったが、東京23区で都電が走らなかった区は他にあるのだろうか?」とのコメントをいただいた。「練馬区」の他に都電が走らなかった区は「大田区」「世田谷区」「葛飾区」になる。

 旧西武鉄道時代に青梅街道に敷設した杉並線(通称)が、戦後、東京都に譲渡されていなかったら、題名となった杉並区と中野区は「都電が走らなかった区」に数えられたことになる。都電・杉並線のおかげで「都電が走った区」の仲間入りをした杉並区と中野区を走る都電14系統(新宿駅前~荻窪駅前)を紹介しよう。

■14系統が走った新宿・中野・杉並

 青梅街道上の新宿駅前を発車した14系統の都電は、成子坂下の先で神田川に架かる淀橋を渡る。ここまでが新宿区で、この先は中野区に入る。中野区の中心地である鍋屋横丁を過ぎ、本町通六丁目の先で杉並区に入る。次の停留所が高円寺一丁目で、新宿駅前からここまでを高円寺線と呼んでいた。ここから荻窪駅前までが荻窪線になり、終点の一つ手前の天沼停留所から荻窪駅前がルート変更による複線の新線で、1956年に開通している。この区間にある国鉄(現JR)を天沼跨線橋で越えて、緩い勾配を下れば終点の荻窪駅前に到着する。

 写真はまだ工事中で歩行可能だった環状七号線(都道318号)の高円寺陸橋の上から荻窪方面を撮った一コマだ。画面中央奥に左に軌道が曲がっているところが「ツェッペリン飛行船の格納庫の一部が上屋根に使われている」といわれた都電杉並車庫だ。現在は都バスの小滝橋自動車営業所杉並支所になっており、まったく都電の遺跡が残っていないのが残念だ。遠景で判りづらいが、その先の馬橋一丁目方面からは、バスボデー構造の2500型が走ってくる。

 高層建築がほとんどなく、スカイラインが大きく広がる青梅街道の眺望に、半世紀という時の流れを感じる。画面左に写っているトラックの横、荒玉水道道路を南に進むと「堀之内の厄除けお祖師様」と呼ばれる日蓮宗妙法寺がある。池上本門寺に一日遅れて毎年10月13日にお会式があり、近在から多くの万燈が集まる。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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