出発時には問題がなくても、訪問のあとに感染者の存在がわかれば、事後的に行動を制限された。いつ、どこで隔離の憂き目にあうかわからず、市民は心理的な負担を強いられた。 

 感染者がいることを前提にしたウィズコロナに世界各国が移行しても、中国はかたくなにやり方を変えなかった。当初はゼロコロナ政策に守られて感染せずに済んだと考える人も多かったが、感染力の強いオミクロン株の出現や上海の都市封鎖(ロックダウン)などを経て、社会の閉塞感は増していった。 

■「堅持こそ勝利」 

 それでも習政権は「堅持こそ勝利だ」として、ゼロコロナ政策の徹底を市民に繰り返し求めた。米国など多くの死者が出た国々の対策を批判し、中国は「体制の優位性」によってコロナを封じ込めてきたと宣伝した。感染の拡大が優位性の否定につながってしまう論法で、みずから自由な政策変更の機会を縛っているように見えた。 

 ではなぜ、ゼロコロナ政策は大幅に緩められたのか。 

 習政権はゼロコロナ政策による経済の停滞に対応する必要に迫られていた。ロックダウンなどで経済活動へのダメージが広がり、7~9月期の国内総生産(GDP)成長率は前年同期比3.9%増にとどまった。10~12月期はさらに悪化するとの予想は多い。 

 5.5%前後と設定した今年の成長率目標の達成は、早い段階から難しいとみられていた。若者の就職難も難題で、16~24歳の7月の失業率は19.9%と深刻な数字だった。若年層の不満はふくらんでいた。 

■不満が噴き出す 

 このタイミングで軌道修正に転じた理由は何だろうか。 

 いつまでも厳しすぎる対策を続けるわけにはいかない状況の中で、11月下旬に全国で同時多発的に起きたのが、ゼロコロナ政策への抗議活動だった。 

 長期にわたりロックダウンされていた新疆ウイグル自治区ウルムチで11月24日に火災が発生し、当局発表で10人が死亡した。封鎖でアパートに消防車が近づけず、消火が遅れたとの見方が広がった。ウルムチでの抗議デモに続いて、各地の大学や街頭で追悼の動きが相次いだ。 

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