さらにネットを探ると、最近のランドセルは購入時期が5月~6月がピークと年々早まっており、どんどん高額化・重量化しているといいます。家庭間で格差が生まれるし、子どもの体への負担も懸念されているという新聞記事をいくつも読むうち、私は次第にランドセルへ怒りを感じるようになりました。高価でずっしり重いランドセルなんて親のエゴじゃあないか。しょせんは通学カバン、アメリカみたいに安くて軽いバックパックで十分だろう。ランドセル、おまえなんかもう買ってやらないからな!

 やがてわがやは予定通り日本に移住し、子どもたちは日本の幼稚園・保育園に入りました。ランドセル商戦ピークの頃は入園準備でランドセルどころではありませんでしたし、そもそもランドセルなんて買わないと依然思っていました。でも、その考えが180度変わったのです。

 わが子たちは、少し前までアメリカに住んでいたなんて信じられないくらい日本の社会になじんでいきました。口調も変わって、「やばい」「めっちゃ」「きめつのやいば」など、アメリカ時代は口にしなかった言葉をどんどん覚えてきました。歩き方、うたの歌い方、描く絵の雰囲気まで変わりました。世界中の誰にも似ていないうちだけの子と思っていたわが子たちは、すっかり「日本の子ども」になりました。

 それは、子どもなりの擬態なのだと夫は言いました。アメリカ人の夫は、父親の駐在で小学校時代ベルギーに住んでいたことがあります。転校した当初アメリカ風の話し方や服装、お弁当などをからかわれたため、ベルギー人のクラスメートたちに似ようと必死に真似をしたそうです。「子どもって、異質な存在を残酷なくらい排除しようとするものだから」という夫の言葉を聞いて、私はランドセルへの思いを改めました。

 ランドセルの高額化・重量化は社会問題だ、わが家がアメリカ式にバックパックを導入することで一石を投じるのだ、なーんて考えていましたが、そんな主張はそれこそ親のエゴではないか。子ども自身にとっては、社会問題の解決なんかよりも友だちと同じカバンで登校するほうが何倍も大切なのではないか。高額化・重量化が問題ならランドセルの中でも安価で軽めのものを選べばいいんだし。ランドセル、あなたはもしかして、どんな子どもでも一律「日本の小学生」にしてくれる心強い鎧のようなものなんじゃないか──と。

 そうして、世の流れに乗って夏頃にはランドセルを注文したわが家です。10カ月後の4月、ピカピカのランドセルを背負って入学式に向かった娘は、立派な「日本の小学生」でした。そういえば、アメリカの友人に子どものランドセル姿の写真を見せてもらったのですが、その子も立派な日本の小学生でした。写真の背景は広いアメリカの台地、服装も髪型も顔つきもアメリカンなのに、ランドセルを背負っているとなぜか日本の小学生に見えたのです。長年日本の小学生に背負われている歴史があるからこそ、ランドセルはこうして擬態に一役買えるのかもしれない。ランドセル、あなた、なかなかやるじゃない。

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大井美紗子

大井美紗子

大井美紗子(おおい・みさこ)/ライター・翻訳業。1986年長野県生まれ。大阪大学文学部英米文学・英語学専攻卒業後、書籍編集者を経てフリーに。アメリカで約5年暮らし、最近、日本に帰国。娘、息子、夫と東京在住。ツイッター:@misakohi

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