■弾くより内部に興味を持つ 小学生で調律師を夢見る

 ファツィオリは、北イタリアにある1981年創業の小さな新興ピアノメーカーだ。社長のパオロ・ファツィオリは家業の家具製造を経て、独自のピアノ造りを目指す。理想の音を追求して最先端の技術と最上の素材を駆使し、職人の手仕事で1台ずつ仕上げていく。完成までに3年を超え、年間生産台数は130台ほど。スタニスラフ・ブーニン、アンジェラ・ヒューイット、ジャズ界でもハービー・ハンコックなどが演奏するが、日本では希少な存在で「幻のピアノ」といわれていた。

 歴史と伝統を重んじる老舗メーカーがひしめく業界で、一躍、その名をはせたのが2010年のショパン国際ピアノコンクール。スタインウェイ、ヤマハ、カワイと並んで公式ピアノに認定された。この大会で調律師を務めたのが越智だ。欧州のピアノメーカーで日本人が調律を任されるのは異例のこと。ファツィオリで「100万人に一人の逸材」と称されていた彼の名も大きく注目された。

 ピアノとの出合いは小学生時代。東京都江東区で運送会社を営む父と母、3人の姉と兄の5人きょうだいの末っ子として、あたたかな家庭に育つ。小2の頃、家にあったアップライトピアノを弾く姉たちを見て、自分も習いたいと通い始めた。

「調律」の仕事を知ったのは小5のときだ。「エリーゼのために」を教則テープに合わせて弾くと、楽譜通りでも音が合わない。試しに半音上げて弾いたらテープと同じ音になった。「うちのピアノはおかしい」と家族に話すと、一度も調律していないことがわかり、初めて調律師に来てもらう。

「あれが僕の出発点でした。何で鍵盤を外せるのか、音はどのように鳴るのだろうと思う。自分で弾くより、ピアノの内部に興味をもったのです」

 銀座の楽器店で調律の本を見つけ、家のピアノをいじり始める。小6で小遣いをためて1万円のチューニングハンマーを購入。中学時代には調律師の養成学校も見学した。両親は家業を継がせたいと願っていたが、頑として揺るがなかった。

「高校の頃、家へ来た調律師さんが本棚に並ぶ本を見て、『調律師になりたいの?』と。その人は国立音大の卒業生で、調律科があるから一度見学してみたらといわれたのです。ピアノを造る授業を見て『絶対ここに来たい!』と決めました」

 1浪の末、国立音楽大学へ入学。調律師を志す8人が集まった。だが、最初はひたすらカンナや包丁など刃物を研がされ、「何でこんなことをやるのか」とムッとしたことも。恩師の吉田偉佐男(80)は当時から教え子の越智に目をかけていた。

「この仕事は道具をきちっと扱えないと使いものにならない。彼は物事を冷静に見ることができ、自分が納得いくまで一生懸命やっていました。調律師が向き合うのはピアノですが、それを使う人がどういう音を弾きたいのかを話し合い、ちゃんとくみ取れるかどうかも大切。越智くんは穏やかなので、この子は向いているなと思いましたよ」

(文・歌代幸子)

※記事の続きは2021年8月30日号でご覧いただけます。