北朝鮮が一番期待しているのは、政治的なディールだ。自分たちの身を守るためには核とミサイルは手放せない。適当な核軍縮で手を打ち、自分たちの存在を認めてくれる相手であれば、喜んで交渉に応じる。トランプ前米大統領がそうだった。

 18年4月、板門店で文在寅(ムンジェイン)韓国大統領と2人きりで会談した際、正恩氏は「1年以内に核放棄をすることも可能だ」と語った。だが、実務協議に出てきた当時の金英哲(キムヨンチョル)党統一戦線部長や崔善姫(チェソンヒ)外務次官らは、非核化に極めて慎重な姿勢を崩さず、時には米朝協議を壊すような暴言も吐いた。関係者の一人は「2人は北朝鮮エリート層の考えを代弁していた。彼らは協議の進展を望んでいなかった」と語る。

 正恩氏は祖父の金日成(キムイルソン)主席のような絶対的な独裁者ではない。人脈も経験も不足しているため、エリート層抜きには采配を振るえない。エリート層も権力の座に居座るためには、祖国を解放した英雄である金日成氏と血縁関係にある正恩氏が必要だ。正恩氏とエリート層は共生関係にある。

 もちろん、エリート層は他の幹部から讒言(ざんげん)されることを恐れて、決して正恩氏を批判したり逆らったりはしない。ひたすら、「正恩氏のため」という理由をつけ、自分たちの利益を生む方向に誘導する。

■現状維持で構わない

 この結果、正恩氏は「1年以内の核放棄」という自分の考えを修正した。おそらく側近たちは「正恩氏の手腕をもってすれば、一部の核放棄でも、トランプを説得できる」と進言し、正恩氏も自分の力を過信して受け入れたのだろう。結局、米朝協議は決裂し、北朝鮮は手ひどい傷を負った。

 そして、バイデン大統領は、トランプ前大統領と真逆の方針を立て、政治的なディールを排除。対中国政策が喫緊の課題で、北朝鮮問題は現状維持で構わないという思惑もあったようだ。

 米政府元当局者は「本気で北朝鮮を動かそうとするなら、気候変動問題を担当するジョン・ケリー大統領特使のような大物政治家を起用すべきだった」と語る。ソン・キム氏はジョージ・W・ブッシュ政権当時から北朝鮮問題で活躍したキャリア外交官だが、政治的に妥協する権限は与えられていない。北朝鮮がバイデン政権に魅力を感じない理由がここにある。(朝日新聞記者・牧野愛博)

AERA 2021年7月5日号より抜粋