めぐみさんは1977年11月、新潟市内の中学校からの下校途中にいなくなった。約20年後の97年2月、アエラと産経新聞が同日に北朝鮮による拉致であることを報じ、歯車が大きく動き出した。めぐみさんの実名を出して救出活動をする決心をしたのは滋さんだった。

「母も双子の私たちも一般人なんです。国際関係論とか国際政治を学んでいるわけでもなく、外交権も警察権も持たない素人です。ただ父が名前を公表して、この問題を前に動かすというのは、考えたことではなく、おそらく本能的な父の勘みたいなものなんだろうと思っています。我が子を救うために何を決断すべきか、本能的に勇気ある判断をしたんだと思う。それがようやくここまで、まだ解決はしていないものの、あと一歩のところまで来ていますから、そこは止めてはいけない。父の思いを叶えるために止めてはいけないと思っています」(拓也さん)

 拉致被害者家族連絡会の事務局メンバーでもある2人は、拉致被害者全員の即時一括帰国という従来の方針がぶれないよう、引き続き日本政府に働きかけていくと強調した。

 滋さんの死去と横田さん一家の会見について、元法務省のキャリア官僚で東京入国管理局長などを歴任した坂中英徳さん(75)はこう語る。

「何十年も政治が放置し、マスコミも冷淡だったことは事実。拉致問題解決の機運を盛り上げるような継続的な報道は今もないし、北朝鮮からすれば日本が総力をあげて取り組んでいるようには映らないでしょう」

 坂中さんは退官後に移民政策研究所を設立して日朝関係についても政策提言を重ね、14年の日朝政府間協議による「ストックホルム合意」成立に尽力した人物だ。この合意は、残留日本人、日本人配偶者、拉致被害者及び行方不明者を含む全ての日本人に関する調査を実施することを約束させた画期的な内容だが、16年に北朝鮮が特別調査委員会の解体を宣言、形骸化している。坂中さんが続ける。

「政府は純粋に邦人保護を義務として取り組むべきです。自国民が海外に拉致されてその救出を怠る国など世界中どこを探してもないし、外国人に出国の自由を認めない国も北朝鮮ぐらいしかない。この際はっきりと北朝鮮に対し、日本人の出国の自由を認めない限り国交正常化は認められないと通告するべきでしょう」

 愛娘を再び抱きしめることが叶わぬまま天に召された横田滋さんの無念を、我々は決して忘れてはならない。(編集部・大平誠)

AERA 2020年6月22日号より抜粋