大正期「首里城取り壊し」の危機を救った美術研究者 復元のカギを握る重要資料の中身 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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大正期「首里城取り壊し」の危機を救った美術研究者 復元のカギを握る重要資料の中身

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渡辺豪AERA
「寸法記」に収められている首里城正殿の唐獅子や牡丹、昇り龍の図柄。配色も細かに指定されている(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵)

「寸法記」に収められている首里城正殿の唐獅子や牡丹、昇り龍の図柄。配色も細かに指定されている(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵)

1991年5月、復元の整備を進めていた首里城跡。沖縄戦で破壊される前は国宝に指定されていた。80年代末から復元が行われ、総事業費は33年間で約240億円に上った(c)朝日新聞社

1991年5月、復元の整備を進めていた首里城跡。沖縄戦で破壊される前は国宝に指定されていた。80年代末から復元が行われ、総事業費は33年間で約240億円に上った(c)朝日新聞社

 一夜にして正殿などが焼失した沖縄の首里城。その文化的価値に注目し、保存や復元にかつて尽力したのは沖縄の人たちだけではなかった。首里城が「人類共通の遺産」であることをあらためてかみしめたい。

【1991年当時の首里城復元事業の空撮はこちら】

*  *  *
 東京・神保町駅近くの岩波書店。

 雑然とした編集者の机の傍らに、古びた大学ノートが無造作に積み上げられていた。その資料の山を前に、目を輝かせる大学院生がいた。

「これは宝だ」

 首里城に隣接する沖縄県立芸術大学(以下、県立芸大)で約30年にわたって鎌倉芳太郎研究に身を捧げてきた波照間永吉名誉教授(69)は、初めて「鎌倉資料」に接した35年前の興奮を感慨深く振り返った。

 美術研究者で人間国宝の鎌倉芳太郎(1898-1983年)が、琉球・沖縄の芸術研究の集大成として83歳のときに上梓した『沖縄文化の遺宝』(82年、岩波書店刊)。首里城とその周辺の寺院や工芸品などの写真と、琉球王朝ゆかりの古文書などをもとに沖縄文化に対する論考が収められている。

 この著作が世に送り出されるのを見届けるように、鎌倉は10カ月後に東京で息を引き取る。波照間さんはその翌年の84年、恩師である「沖縄学」の第一人者、法政大学教授の外間守善(ほかま・しゅぜん)(1924-2012年)の指示を受け、後輩の大学院生たちとともに、大正末期から昭和初期にかけて鎌倉が沖縄で収集した「鎌倉資料」の目録づくりに当たった。

 86年に開学する県立芸大に「鎌倉資料」が寄贈されることが内定し、あらためて整理する必要に迫られていたのだ。これらの資料は『沖縄文化の遺宝』の刊行に当たって担当編集者の手元に集められていた。大正末期の「琉球芸術調査」に際して作成された手書きの81冊のノート(鎌倉ノート、国重要文化財)をはじめ、約3千点の写真など膨大な資料をわずか20日間でチェックする突貫作業だったという。波照間さんは鎌倉の功績をこうたたえる。

「鎌倉先生は、日本と中国のすぐれた面を採り入れた琉球芸術への造詣を深め、大正期に首里城の文化的価値を最初に見いだした研究者です」


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