安藤和津(あんどう・かづ)/1948年、東京都生まれ。今年10月、母の介護とうつからの再生を振り返った『“介護後”うつ 「透明な箱」脱出までの13年間』(光文社)を出版(撮影/小原雄輝)
安藤和津(あんどう・かづ)/1948年、東京都生まれ。今年10月、母の介護とうつからの再生を振り返った『“介護後”うつ 「透明な箱」脱出までの13年間』(光文社)を出版(撮影/小原雄輝)

 エッセイストの安藤和津さんは、実母の認知症介護を終えて、「介護後うつ」を発症した。

「介護中のうつのトンネルを抜けたら、そこに待っていたのが『介護後うつ』でした。母を見送った後も10年以上、まるで透明な箱に閉じ込められたかのような日々が続きました」

 安藤さんの母、昌子さんが認知症を発症したのはもう少しで70代に入るというころだった。安藤さんは40代後半。おおらかで面倒見のよい母親が、手が付けられないほどのヒステリーを起こし、人が変わったように安藤さんを攻撃した。

「トイレで一人、クソババァ! 早く死ね!と独り言を言っては発散してました」

 あまりの変わりように病院を受診すると、昌子さんの脳にテニスボール大の腫瘍が見つかった。そのせいで老人性うつと認知症を発症していたのだ。

病気のせいだとも知らず、母を憎んでしまった。それが大きな罪悪感になりました。この先は1分でも1秒でも、母には幸せに暮らしてもらわねばと」

 安藤さんは得意の料理の腕を振るい、1食5品もの介護食を作り続けた。やがて母は寝たきりになり、在宅介護が本格化。子育てと介護と仕事で寝る暇もない日常に、次第に安藤さん自身がむしばまれていった。

 約12年にわたる介護の末、昌子さんが亡くなったのは安藤さんが58歳のとき。介護末期に発症した介護うつにも終止符が打てると思ったのに、予想以上の喪失感が襲ってきた。安藤さんが「透明な箱」と表現するうつ症状は、むしろ見送った後のほうがひどかったという。家族と一緒にいるのに、自分だけ見捨てられたような孤独感。みんなが何を笑っているのかすら理解できなかった。スーパーへ行っても冷蔵庫を開けても、目に入る食材から献立が考えられず、料理ができない。仕事中言葉に詰まり、突然涙があふれたことも。そんな状況が好転する大きな転機は、孫の誕生だった。

「おむつを替え、お風呂に入れて食事をさせる。介護とまるで同じ作業だけど、明るい未来がある。孫の世話を通して、母の命は孫に受け継がれているんだと実感できたことが救いになりました。それにね、うつと認知症ってよく似てるんですよ」

 うつの症状として記憶障害や失認を経験した。これらは認知症の中核症状でもある。

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