めったに見せない作業場で、平和の尊さを語る与勇輝。こだわっている木綿の質感が、人形の肌を生き返らせる(撮影/写真部・加藤夏子)
めったに見せない作業場で、平和の尊さを語る与勇輝。こだわっている木綿の質感が、人形の肌を生き返らせる(撮影/写真部・加藤夏子)

 戦後73回目の8月が来た。広島や長崎を始め各地で戦没者の慰霊が行われる。平和が当たり前となった今、自らの戦争体験を作品で表現し、平和の尊さを世界に発信している人形作家がいる。与勇輝。昭和を題材とした人形に秘めた思いを聞いた。

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 家族と住んでいた神奈川県川崎市から多摩川の向こうに見える東京の空は、真っ赤だった。川崎でも空襲を知らせるサイレンが昼夜構わず鳴り、手を引かれて防空壕に連れ込まれた。

「泥臭い防空壕で、じっとしてるの。真っ暗闇なの。暗いのは今でも嫌。当時のことを思い出すのも、話すのも、僕らの世代は、みんな嫌なんだ」

 今年7月、東京都豊島区にある自宅兼アトリエで、初めて会った与勇輝(あたえゆうき・80)には不思議な力があった。

「思い出したくない」という戦時中や終戦直後の出来事を、子どもの表情やしぐさまで詳細に覚えている。生きている人間のような人形作品を生み出す能力の源は、人並み外れた記憶力なんだと実感した。受け答えが子どものように純粋だった。幼少期に心の時計が止まり、体だけが大人になったかのような、童心の大きな塊が、与には残っている。だからこそ、作品も自然と子どもの人形になる。童心を忘れた大人たちの心を揺さぶり、懐かしさや純粋さを思い出させてくれる作品の魅力は、そのまま作者の分身だった。

 封印してきた戦争の記憶を解き放ち、作品化に踏み切ったのが70歳過ぎ。「記憶の風化前に創作しないと悔いが残る」との思いで2010年に制作したのが「浮浪児をイメージした」という作品。その一つが「無心」だ。「上野のガード下にいたの。僕と同じくらいの年だった。学童疎開から戻って来たら、親も家も空襲で失って、浮浪児になる子がたくさんいたの。裸足でね。かわいそうだよ」

「望愁」は、まるで小説『火垂るの墓』の一場面のよう。こうした一連の作品群は「昭和・メモリアル」と題されて代表作となった。 親を亡くしながらも必死に戦後を生き抜く子どもたちが多い作品群の中に、なぜか「昭和天皇」と「マッカーサー元帥」をイメージした人形がある。疎開先の相模湖の近くで玉音放送を聞いた与は、自身の人生の多くを占めた昭和の象徴として、戦後の日本の行き先を決めた2人を、ずっと制作したかったのだという。

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