女子学習院に車で通うようになると、学校の近くで歩いている先生を車で追い抜かすのが「恥ずかしい」と、頼みこんで市電通学を始める。通学途中でやかましい「お付き」をまいてしまうなど、おてんばぶりは変わらなかった。

 1941年に女子学習院を卒業した久美子さんは、18歳で松平康昌侯爵の長男・康愛(やすよし)さんと結婚する。

 幸せな結婚生活は開戦によって一変。海軍だった夫は出兵、疎開先では薪割りも自分でやり、八王子大空襲の時は茅葺き屋根に上り、一人で火を消し止めた。

 戦後、夫の戦死がわかると、周囲の勧めもあって、跡取りである一人娘を松平家に残して離縁。亡夫の旧友だった医師の井手次郎さんと再婚した。

「明るくて愚痴を言わない人でした」と、息子の純さん。

「世が世なら──といったことを、母は一切、言いませんでした。過去を振り返らず、いつも前を向いていた。好奇心旺盛だったのが、明るさの理由かもしれませんね。疎開中の慣れない田舎暮らしも、父と再婚して大家族の嫁になったときも、苦労はあったのでしょうが、どこか物珍しく、面白がっていたような気がします」

『徳川おてんば姫』の刊行がニュースになり、多くの人が関心を寄せていることを孫の悠介さんが伝えると、「まるで夢のようね」と喜んだという。

 久美子さんは私がお見舞いにうかがった翌朝、二人の息子と孫に見守られながら、静かに息をひきとった。多くの国民と同じように、戦争に翻弄されながら大正・昭和・平成を駆け抜けるように生きた久美子さん。自叙伝は、こんなふうに結ばれている。

「人々が幾重もの苦難を乗り越え、築きあげたこの平和な世の中が続くことを心から願ってやみません」

(ライター・矢内裕子)

AERA 2018年8月6日号