『産声のない天使たち』には子どもを亡くした家族の物語のほか、悲しみから立ち直るプロセスや体験者が傷ついた言葉なども書かれている(撮影/写真部・小黒冴夏)
『産声のない天使たち』には子どもを亡くした家族の物語のほか、悲しみから立ち直るプロセスや体験者が傷ついた言葉なども書かれている(撮影/写真部・小黒冴夏)
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 AERA連載がもとになった『産声のない天使たち』(朝日新聞出版)の発売から3カ月。赤ちゃんの死という重いテーマに、たくさんの感想が届いている。体験した人もしていない人も、これまで声にできなかった“何か”を感じている。

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「私たちの記事もぜひ載せていただけないでしょうか」とメールをくれたのは、7年前に双子の娘たちを早産の合併症で亡くした佐藤美咲さん(32)だ。

「子どもを亡くして苦しい思いをしている人がいることや、NICUでは今この瞬間も頑張っている赤ちゃんやお父さん、お母さんがいることを知ってほしい。それが娘たちの生きた証しになるとも思うんです」

 美咲さんの双子の娘たちは一卵性で、羊膜は二つあるが胎盤が一つしかないために単胎妊娠の約10倍のリスクがあり、妊娠初期から管理入院となった。入院中、故郷の盛岡で闘病中の母が危篤になったが、医師から「何かあっても現地の病院では対応できないだろう。行くなら子どもはあきらめる覚悟で」と言われ、母の最期に立ち会うことはできなかった。

 妊娠20週で子宮頸管が測れないほど短くなり、いつ破水してもおかしくない状態に。22週2日(妊娠6カ月)で生まれた瑛南ちゃんは480グラム、玲南ちゃんは400グラムだった。瑛南ちゃんは生後3日目に亡くなり、玲南ちゃんを初めて抱っこできたのは生後3カ月、亡くなる間際だった。美咲さんはNICUの片隅でまだ温かい娘を胸に抱き、叫び泣いた。

 わずか数カ月の間に、母と娘2人を天国へ見送った美咲さんは、火葬を終えて日常に戻った途端に張り詰めていた気持ちが切れてしまったという。

 大好きな母に会うことも我慢して妊娠、出産を選んだのに、私には何も残らなかった。なんで私なんだろう。なんで私の娘たちだったんだろう。なんで、なんで、なんで──。

 答えのない問いがずっと頭に浮かび、何も手につかない。私も一緒に死ねばよかったと思い詰め、心療内科にも通った。

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