3月9日、佐川氏は記者団の取材に応じ、「決裁文書について大きな議論がなされている最中で、その文書を国会に提出したときの担当局長だった」と辞任の理由を語った (c)朝日新聞社
3月9日、佐川氏は記者団の取材に応じ、「決裁文書について大きな議論がなされている最中で、その文書を国会に提出したときの担当局長だった」と辞任の理由を語った (c)朝日新聞社
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 財務省の決裁文書改竄問題で佐川宣寿・前理財局長(60)の証人喚問が迫ってきた。首相官邸は「理財局の一部の者によって全体の信頼が失われた形になっているのは甚だ残念」(麻生太郎財務相)などの発言を繰り返し、佐川氏らの責任で問題の幕引きを図ろうとしている。

 霞が関の元幹部官僚は佐川氏に同情の思いを語った。

「森友学園問題を巡る国会答弁で、気骨のある人なら辞めてしまうだろうが、今の官邸主導の政治では誰が理財局長だとしても、ああした答弁をせざるを得ないだろう。官邸を守った上に、今度は責任を押し付けられることになる。ポストが巡ってきたタイミングが悪かったとしか言えない。不運な男だ」

「不運な男」はどのような人生を歩んできたのか。佐川氏は福島県いわき市の出身。地元の公立小学校、公立中学校に学ぶが、中学3年のときに父親が死去。東京の中学校に転校し、都立九段高校に進学する。

 高校の同級生が振り返る。

「成績は常にトップグループで、授業でわからないところがあると、授業後にノートを持って先生のところに詰め寄っていた。休み時間も、バカ騒ぎするよりも芥川龍之介や遠藤周作の本を読んでいたり、とにかく真面目。あの学識をあんな答弁には使わないでほしかった」

 また、別の同級生は、

「当時は東大に現役で1人合格が出るか出ないかという状態だったが、働いて学費を出してくれた3人の兄のためにも東大に行きたいと話していた」

 佐川氏は2浪したものの、東大経済学部に進学。大学時代の同級生はこう話す。

「目立つタイプではなかったが、勉強は熱心にやっていた。大学では農業経済を専攻したが、最終的に選んだのは財務省。トップへの執念は強かった」

 1982年に旧大蔵省に入省後は、順当にキャリアを重ね、2001年には塩川正十郎財務相(当時)の秘書官に就任する。霞が関の官僚はこう話す。

「秘書官時代に部下が準備した答弁書をハサミでバラバラにした話は有名。上には媚び、下には厳しいタイプだった」

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