目をかけていてくれた雑誌「土上(どじょう)」の主宰・嶋田青峰が1941年2月、治安維持法違反で検挙された事件である。総計44人が検挙された新興俳句弾圧事件の一環だった。特段の言動があったのでもない。だがこの当時、人間の生命も尊厳も、特高警察の胸三寸で、どうにでもなるものでしかなかった。虐待された青峰は獄中で喀血し、釈放された後も回復できぬまま死に至っている。

 戦後の金子さんは、虚子以来の花鳥諷詠にも、五・七・五の定型にもとらわれない、現代俳句運動の先頭を走り続けた。復帰した日銀では組合活動に従事し、冷や飯を食わされもしたが、彼は不遇さえもエネルギーに変えて、膨大な句を詠み、一茶や山頭火の研究に精魂を傾けた。

 現代俳句協会の会長および名誉会長職。朝日俳壇の選者。蛇笏賞、日本芸術院賞、スウェーデンのチカダ賞、文化功労者、菊池寛賞、朝日賞……。功績を挙げていけば際限がない。晩年は東京新聞で15年にスタートさせた「平和の俳句」の仕事を、とりわけ大事にしていた。

「AERA」編集部と私は、そんな金子さんの魅力溢れる人間像を「現代の肖像」欄で読者に紹介しようと、かねて取材を進めていた。とことん自由な魂を湛えて、誰にも愛される人だった。2月25日には長野県上田市の無言館近くで前記の俳句弾圧事件の犠牲者たちを語り継ぐ「俳句弾圧不忘(ふぼう)の碑」の除幕式があり、呼びかけ人の金子さんも出席する予定だったから、悲願を叶えての思いを存分に語っていただいた上で、一気に書き上げるつもりでいたのに──。

 私たちはまたしても大きな道標を失ってしまった。だが泣いてばかりいるわけにはいかない。

 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を
 置きて去る

 金子さんがトラック島から引き揚げた際に詠んだ句だ。彼に学び、その心を忘れずに生きたいと思う。(文中一部敬称略)(ジャーナリスト・斎藤貴男)

AERA 2018年3月5日号