哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、倫理的視点からアプローチします。
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いま光州のホテルでこれを書いている。韓国に講演旅行に来るのはこれで6年目。ここしばらくはいくつかの自治体の教育監(日本の教育長に当たる)の招待で来ている。
韓国は日本とはシステムが違い、教育長は首長による任命ではなく、公選制である。3年前の公選で17の教育区のうち13でリベラル派が選ばれ、以後各地で教育改革が進んでいる。公選された教育監の多くは教員出身で、中枢的な管理を抑制し、現場の自由裁量に委ねる方向に韓国の公教育は今動いている。
日本とは向かっている方向が逆である。私のような人間が招聘(しょうへい)されることからもそれは知れる(日本には私を講師に招くような教育委員会は存在しない)。韓国でリベラル主導の教育改革が進んでいることを日本のメディアはほとんど報じないから、日本の教員たちはその事実を知らないだろう。
それでも、学校教育が抱えている本質的な問題は日本も韓国も変わらない。少子化、不登校、グローバル化、階層化など。とりわけ「グローバル化」と称して、換金性の高い「実学」領域と英会話能力開発に過剰な教育資源を投じる傾向は韓国にも見られる。教育成果が年収やコミュニケーション能力の差としてただちに数値的に可視化されることを「グローバル化」と命名している点では日韓ともに事情は変わらない。
それが大学教育と研究環境をどれほど傷つけ、痩せ細らせたかは、日本の大学の学術的発信力の劇的な劣化(先進国最下位にまで落ちた)によって知られる。
日本のメディアは伝えることを忌避しているが、昨年の秋には米の外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」が、今年の春には英の自然科学ジャーナル「ネイチャー」が相次いで「日本の大学教育の失敗」と「日本の科学研究の停滞」についての長文の記事を掲載した。
私のここでの仕事は韓国が日本の轍(てつ)を踏まないように日本の失敗の歴史と構造を吟味し、開示することである。
日本ではもう手遅れだが、韓国にはまだ方向転換するだけの時間的余裕があると思うからである。
※AERA 2017年11月20日号