それから約1時間、小倉さんは写真などをスライドで映しながら、8歳の時に爆心地から2.4キロ離れた自宅近くで被爆した自身の経験を語った。

 突然の閃光で目の前が真っ白になったと思ったら、すさまじい爆風で体が地面にたたきつけられた。周囲の家から炎があがる中、自宅に戻ると、ガラス片が飛び散り、壁や柱に突き刺さっていた。そして黒い雨が降ってきた。広島は火の海だった。逃げてくる人たちの中には、頭髪が焼け焦げ、顔や唇は腫れ上がり、皮膚が指先から垂れ下がっている人たちもいた──。

 小倉さんの目をじっと見つめながら、黙ってノートをとり続けていたピューツさんが突然、「なんてひどい」と声を震わせたのは、被爆した事実を差別を恐れて隠さなければいけなかったという被爆後の苦しみを小倉さんが話した時だった。「最も支援を受けなければいけない人たちが偏見や差別の対象になるなんて」。そうつぶやいたピューツさんは、生まれてくる子どもの健康を心配して結婚を避けられたり、体が弱いなどとされて就職ができなかったりした被爆者が多くいたことを初めて知り、衝撃を受けたという。

●核兵器禁止条約の採択 日本は署名しない方針

「私はもう80歳になった。高齢となった被爆者は毎年、亡くなっていく。時間がない」と小倉さん。厚生労働省によると今年3月末時点で、被爆者健康手帳の所持者の平均年齢は81.41歳。人数は16万4621人と過去最少になった。

「それでも私たちは、同じ惨事が繰り返されないよう、被爆体験を語り続けないと、原爆で犠牲になった人たちに顔向けできない。核兵器は存在してはならないのだから」

 そう締めくくった小倉さんにピューツさんが「最後にどうしても聞きたいことがある」と立ち上がった。

「私たちは何をするべきでしょうか。アメリカへメッセージを下さい」

 小倉さんの回答は、面会後にピューツさんが「とても心に響いた」と振り返る内容だった。

「広島や長崎で何が起きたのかを学んでほしい。事実を知り、多くの人と共有することで、絶対悪である核兵器の目撃者になる。国境を超えた努力の結集が、よい結果をもたらす」

 そう言いながらピューツさんとハグをした小倉さんは、「今日、私はアメリカ人のあなたをとても近くに感じられた。あなたに私と同じ経験をしてほしくない。広島まで来てくれて、ありがとう」。ピューツさんは小倉さんに約束した。「家族に、友達に、小倉さんのメッセージを必ず伝えます。お話をしていただき、感謝いたします」

 面会後、小倉さんは筆者にも言葉をかけてくれた。

「戦後、絶望し、どうしていいか分からなかった私たちを勇気づけてくれたのは若い人たちだった。この人たちが二度と同じ経験をしないようにするには、何をしたらいいのか。この人たちがいなければ、私たちは生きる意味を感じなかったと思う。ありがたいことです。いま世界中から広島に来てくれる人の将来のためにも、私たちがすべきことは、広島のメッセージを伝えることだと思っています」

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