高知・桂浜に立つ坂本龍馬像。太平洋のかなた、はるかアメリカを望んでいる。月の名所としても知られる(撮影/写真部・小林修
高知・桂浜に立つ坂本龍馬像。太平洋のかなた、はるかアメリカを望んでいる。月の名所としても知られる(撮影/写真部・小林修
齋藤秀一さん(52、左)と、永長佳美さん(21)。龍馬好きが縁で知り合い、齋藤さんが発行している「湘南海援隊文庫」も永長さんが手伝う(撮影/編集部・野村昌二)
齋藤秀一さん(52、左)と、永長佳美さん(21)。龍馬好きが縁で知り合い、齋藤さんが発行している「湘南海援隊文庫」も永長さんが手伝う(撮影/編集部・野村昌二)
美甘子さん(35)/歴ドル/坂本家の家紋、「違い升桔梗紋」が入った着物を羽織ると、「龍馬さんの熱い気持ちが乗り移ります」と笑う
美甘子さん(35)/歴ドル/坂本家の家紋、「違い升桔梗紋」が入った着物を羽織ると、「龍馬さんの熱い気持ちが乗り移ります」と笑う

 坂本龍馬が凶刃に倒れて今年で150年。近代国家確立に向け奔走した男は、私たちに消えることのない残像を残した。龍馬に続けとばかり、時代に挑戦する人々がいる。

 日本史上、時代を超えてこれほど人気を誇る人物はいないだろう。

 幕末の志士、坂本龍馬(1835~67)。

 大志を抱き若い理想に燃え、新時代の幕開けを目指し、幕末を疾駆した。そんな龍馬に、私たちは魅せられ勇気づけられる。

「龍馬によって人生観がガラッと変わりました」

 と話すのは、神奈川県横須賀市に住む齋藤秀一さん(52)。

 龍馬に心酔したのは中学3年の時。母親に買ってもらった司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を読んだのがきっかけだった。本の中で、大政奉還直後に龍馬が作成した新政府の組閣名簿に龍馬の名がないことを不審に思った西郷隆盛に、龍馬が言う。

「世界の海援隊でもやりましょうかな」

 目からウロコが落ちた。そのころ、齋藤さんは無気力状態で不登校の少年だった。しかし、龍馬のこの一言を目にした瞬間、自分がちっぽけに思えた。

「夢を持って何かをやらなくちゃいけない」

 大学を卒業すると郵便局に就職、30歳の時には課長にまで昇進した。このままいけば局長にまでなれたが、長崎市内で龍馬ファンが集まる居酒屋を訪れたことがきっかけとなり、地元の横須賀にも龍馬好きが集まれる場所をつくりたいと思い一念発起。40歳で退職し、42歳の時に飲食店「やきとり竜馬におまかせ」をオープンした。

●心のパートナー

 収入は減ったが、悔いはない。それどころか、人生にとって素晴らしいものを与えてもらったと思っている。

「人との出会いです」

 店は龍馬ファンが交流する場となり、さまざまな人が訪れる。外国人、高校生……。龍馬好きだけでなく、アンチ龍馬まで。齋藤さんはそれが楽しくて仕方がないと笑う。夢は?

「薩長同盟など、龍馬は人と人とを結ぶことがうまかった。僕も、『出会いの達人』になりたいと思います」

 今年は龍馬が死んで150年にあたる。1867年晩秋の11月、龍馬は京都の近江屋で、好物のシャモ鍋を食べようとしていたところを凶刃に倒れた。

 享年33。短い人生だったが、自分が信じたことに命を懸けた一生でもあった。

 そんな龍馬の生き方に励まされてきたのは、「歴ドル」(歴史アイドル)の美甘子さん(35)。

「龍馬は、私の心のパートナーです」 

 龍馬愛に目覚めたのは、小学4年の時。TVアニメ「お~い!竜馬」を見てすっかりとりこに。「泣き虫」「弱虫」とからかわれていた龍馬が、仲間に支えられながら成長し、大政奉還を成し遂げる姿に感動した。

 龍馬が残した言葉で好きな言葉が、美甘子さんにはある。

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野村昌二

野村昌二

ニュース週刊誌『AERA』記者。格差、貧困、マイノリティの問題を中心に、ときどきサブカルなども書いています。著書に『ぼくたちクルド人』。大切にしたのは、人が幸せに生きる権利。

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