97年11月の沖縄の施政権返還25周年を記念する復帰式典。大田昌秀知事は「当時、政府が建議書を真剣に受け止め、県民の願いをその後の沖縄政策に生かしていたら、わが県はもっと違った姿になっていたのではないかと思われてならない」と発言した。

 宮里さんは13年前の筆者の取材に、建議書をこう総括している。

「復帰時点に指摘された問題は積み残しの状態で、本質の解決は図られないままメッキを塗ってごまかして今があるのではないでしょうか」

 今やメッキもはがれ落ちてしまった感が否めない。沖縄県内の全市町村長や議会議長が参加した要請団が2013年1月、米軍普天間飛行場の県内移設断念などを求める「建白書」を政府に提出した。しかし、その後の選挙でも示された民意はことごとく踏みにじられ、先月25日、政府は辺野古埋め立ての第1段階である護岸工事に着手した。

「政府は沖縄を領土の観点でのみ捉え、いかに軍事利用するかということだけに集中しているように見えます。ただ、こうした政府の処遇は今に始まったことではありません」(宮里さん)

●信託統治か潜在主権か 独立への道も存在した

 日本政府は明治期に、安全保障上の所要を満たすため、武力威嚇を伴う「琉球処分」によって沖縄を日本国家の版図に組み込んだ。太平洋戦争で沖縄は、本土決戦のための時間稼ぎの「捨て石」として住民が根こそぎ動員された揚げ句、4人に1人が亡くなる地上戦に引きずり込まれた。そうした歴史の連なりの中に今がある。

 そう捉える宮里さんの視座は、政府批判にとどまらない。矛先は自身を含む「沖縄」にも向けられている。

 敗戦時、宮里さんは12歳だった。軍国主義一辺倒の皇民化教育を受け、島くとぅば(沖縄方言)の使用も禁止されていた宮里さんは、沖縄にかつて王政が存在したことや、独自の文化や歴史が育まれてきたことも知らなかった。

 戦後沖縄の教育は、収容所での青空教室に始まり、米軍の指示で沖縄独自の教科書編集が行われた時期もあった。沖縄の歴史が記述されたガリ版刷りの教科書が配られるまで、宮里さんは「首里城」の「首里」という文字を、「みやざと」という自分の姓と重ね、「くびさと」と黙読していたという。

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