クロイツァー波乱の生涯とは…(※イメージ)
クロイツァー波乱の生涯とは…(※イメージ)

 わずか百数十年しかない日本のクラシック音楽史から、小澤征爾をはじめ世界的音楽家が輩出したのは、奇跡かもしれない。その陰に、数奇な人生を送ったひとりのピアニストがいた。

 1949年12月23日、東京・日比谷公会堂で日本交響楽団の演奏会が開かれた。客席にいた少年は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」に度肝を抜かれる。ピアノの前のソリストが、座ったまま指揮を始めたからだ。そのときの印象を、彼は共著にこう書き記している。

〈生のオーケストラを初めて聴いて感激したし、クロイツァーの「弾き振り」にもビックリした。おふくろに「指揮をやりたい」と相談すると「指揮なら、親戚に齋藤秀雄という指揮者がいる」と教えてくれた〉(『ピアノの巨人 豊増昇』)

 この少年こそ、当時14歳の小澤征爾である。世界のオザワ誕生のきっかけを与えた人物の名は、レオニード・クロイツァー。運命の嵐に押し流されるように日本にたどり着き、この国の土となったピアニストだ。

●51歳で日本に亡命

 クロイツァーは1884年、サンクトペテルブルクのユダヤ系ドイツ人家庭に生まれた。1905年、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を独奏してデビューを成功させ、作曲者からも激賞されるが、直後に第1次ロシア革命が勃発。ユダヤ人迫害を逃れて出国する。

 移住先のドイツではピアノ界の最高峰、ベルリン高等音楽院のピアノ科主任教授として迎えられた。だが、ヒトラーが政権を取ると音楽院を追われ、35年、指揮者・近衛秀麿の支援により51歳で日本に亡命した。

 日本の音楽愛好家に歓迎されたが、音楽家としてのキャリアは思うに任せないこともあった。東京音楽学校(後の東京藝術大学)講師就任は3年待たされた。新交響楽団の内紛に巻き込まれ、同じユダヤ系亡命音楽家らとの確執もあった。他方でリサイタルと弟子の育成に心血を注ぐ。主な弟子に、90代の今も現役の室井摩耶子、室内楽で活躍する大堀敦子、NHK「ピアノのおけいこ」の名講師だった井内澄子、横山幸雄の師の伊達純らがいる。長く在欧したフジコ・ヘミングも少女期に入門した。

 門下生はプロの演奏家にとどまらない。刑法学者団藤重光の義妹、陶芸家富本憲吉の次女ら、文化人の子弟も彼に師事した。戦火が激しくなり、日本女子大学構内に軟禁されたクロイツァーに、講堂のピアノを弾く許可を与えたのは、朝ドラ「あさが来た」にも登場した同大初の女性学長、井上秀である。

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