『いつもの言葉を哲学する』
朝日新書より発売中

 いま、社会で言葉が雑に扱われている。言葉が軽んじられている。――これは常套句のようによく指摘されることですが、確かに、そう実感せざるをえない場面を、私たちの社会のそこかしこに見出すことができます。

 たとえば、「遺憾に思う」という言葉は本来、<思い通りにいかず心残りだ>とか、<残念に思う>、<気の毒に思う>ということを意味するはずですが、自分の行いを後悔して「申し訳ない」とはっきり詫びるべき場面でしばしば用いられています。

 また、「発言を撤回する」という言葉が、あたかも議事録から発言の記録そのものを削除するかのように、<自分が発した言葉を後から取り消す>という意味で用いられる場面も、現在ではよく目にします。たとえば、政治家が公の場で不適切な発言を行い、それが批判された場合などです。昔から、「吐いた唾は呑めぬ」(一度口から出した言葉はもう取り消せない)と言われてきたはずなのですが。

 さらに、昨今の新型コロナ禍においては、閣僚や知事、市長といった立場の人々から、「自粛を徹底させる」、「要請に従ってもらう」、「要請を守らない場合には……」といった言葉が平然と発せられてきました。「自粛」とは文字通り<自ら進んで行動を粛むこと>であり、そもそも誰かに指示されるものではありません。また、「要請」には応じるものであって、従ったり守ったりするのは「命令」にほかなりません。

 言葉が軽んじられ、雑に扱われて、やがてねじ曲がり、壊れてしまえば、私たちの生活や社会の基礎の部分が壊れることになります。というのも、私たちはまさに言葉とともに生き、社会をかたちづくっているからです。

 では、逆に、言葉を大切にする(言葉を重んじる)とは何をすることを意味するのでしょうか。

 それは必ずしも、辞書に記されている意味や文法書に書かれているルールを金科玉条のように守る、ということではありません。「速攻帰る」や「地味に痛い」などに見られる「速攻」や「地味」の用法にせよ、ら抜き言葉の使用等々にせよ、時代とともに言葉は絶えず変わり続けるものであって、そうした変化に対して完全に目を瞑ってしまうこともまた、言葉を大切にすることとは程遠いものです。

 いまある言葉の多くは、長い時間をかけて形成された、世界に対する特定の見方を反映しています。そして、時間は流れ、世界は変わり、言葉も変わっていきます。そうした変化と、個々の言葉が湛える豊かな意味合いとを繊細に捉えながら、用いるべき言葉をよく吟味する。――言葉を大切にするというのは、基本的にはそうした努力を指すのだろうと思います。

 このたび上梓した『いつもの言葉を哲学する』は、こうした意味での<言葉を大切にする>ことの内実を、私たちの身近にある具体的な事例を通して明らかにすることを目指しています。

 言葉の意味が変化していくことや、言葉が古びていくことを、私たちはどう受けとめればよいのか。次々に生まれる新語や流行語にどう向き合っていけばよいのか。常套句や決まり文句といったものに、どこまで身を預ければよいのか。個々の言葉がもつ微妙なニュアンスをつかまえるということに、いかなる重要性があるのか。

 こうした問いに絡んで、本書では次のような具体的なテーマを扱っています。「抜け感」や「規模感」といった、近頃よく耳にする言葉の長所と短所。「親ガチャ」という若者言葉が意味すること。「誤解を招いたのであれば……」とか「不快な思いをさせたのならば……」といった謝罪の言葉の何が問題なのか。「かわいい」という言葉の歴史。オノマトペの豊かさ。夫婦の呼び名の難しさ。「ケア」や「クラスター」といったカタカナ語の功罪。「まん延」や「ひっ迫」といった交ぜ書きの氾濫、等々。

 こうした多彩なテーマをさまざまな角度から探究し、良かれ悪しかれ私たちのいまの生活でよく見かける「いつもの言葉」たちを分析しながら、本書は繰り返し次のポイントに立ち戻っていきます。それは、私たちの社会や生活は言葉とともにあり、そのつどの表現と対話の場としてある、ということです。

 表現と対話の場は、言葉を雑に扱うことによって如実に損なわれ、また逆に、言葉を大切にすることによって確保され、より豊かなものとなりえます。私たちの社会や生活を支える言葉の面白さと恐ろしさ、そして、言葉に無関心でいることの危うさに、本書が迫るものであることを願っています。