大学の教室で文学作品を扱うのには困難が伴う。とりわけ小説は難しい。大学という場の性質上、どうしても“解釈”や“議論”を看板にかかげたくなるが、そもそも小説とは「俗」に発するもの。それなのに日常生活の中でほとんど小説など読まない今の若者に対して、小説作品についての精妙な解釈を開陳したり、複雑な議論を熱っぽく展開して何の意味があるのか。

 辻原登『東大で文学を学ぶ』はそんな現状に、現役の小説家が果敢に切り込んでいったものである。元になったのは実際に東大文学部で行われた人気講義「近現代小説研究」なのだが、その最大の魅力は「研究」の美名に甘えていないことである。講義を成立させるには、知の伝授という形を取るのが安全であり、ほとんどの教員は何らかの形でそこに重きを置く。しかし、小説を扱うとなるとそれではすまない。小説ほど「へえ、そうなんですか」という教えられ方が適切でない領域はない。小説的世界には通俗的な関心ががっちりと食いこみ、読者に身を乗り出させるような語りの展開、とくに驚くべき偶然や秘密の暴露などがおおいに活用される。性的逸脱や殺人といった反社会的な要素もしばしば組み込まれる。そんな世界を語るのに、しかめ面をして箇条書きで要点をならべるような講義をしても、肝心な部分をとりこぼしてしまうだろう。

 従って、著者が心がけるのは小説的な世界の成り立ち方を、受講者/読者にいわば身体的に体験させることである。講義にはどんどん外からの語りが混入する。いずれも有無を言わせぬ、強烈な推進力をもった実例ばかり。文学講義の中でプルーストやドストエフスキーや『源氏物語』が引用されるのはさほど意外ではないかもしれないが、中国古代小説のあっと驚くエロチックなエピソードや、「三菱銀行猟銃強盗事件」の凄惨な細部、柳田國男に採集された炭焼き老人の無理心中事件など、異なるモードの語りを自在に組み合わせながら、はっと視界の開けるような切り口を提示する著者の手際は見事である。読者はこうした具体例にいわば巻き込まれることで、身をもって小説的世界の奥深さを知るのである。世界文学アンソロジーの体裁をも併せ持つ本だが、最終的にはむしろ小説というジャンルの不思議さや、その計り難さをこそ実感する人も多いかもしれない。

 講義の出発点にあるのは、「パスティーシュ」という概念である。著者の『東京大学で世界文学を学ぶ』(集英社)でもこの概念は活用されていたが、その元にあるのは「われわれがものを考えたり、想像したり、あるいは生きていることそのものがパスティーシュ」だという考えである。文学においても、小説でも、本質的には私たちは誰かのまねをしている。本書中でも何度となく著者によるパスティーシュが実演されるが、古今東西の語りを織り合わせることで展開されるこの講義の全体がまさに大きなパスティーシュなのであり、著者は小説とは何かという問題に、小説家としての、いかにも小説家的な回答を示してみせたと言える。

 本書には峰がいくつもある。いわば八ヶ岳型の講義。小説をめぐる著者の考えは、引用した語りのエネルギーに憑依するようにして放射状に広がる。その光が、狭いジャンル論を超え、近代全体や、さらには悪とは何か、人間とは何か、といった問題をも照らし出す。その中でも最大の峰はドストエフスキー『罪と罰』の殺人場面をめぐる考察で、その発端にある「動機」をめぐる指摘は、小説言語の本質的なものを照射している。私たちの行動には必ず動機があるという考えを著者はまず疑う。それは近代特有の世界観にすぎないのでは? と。しかし、そのような世界観の構築に与ってきたのはほかならぬ小説だった。「近代の小説というのは、まさにそこの部分を描くから面白いといえる。動機から行為へ、目に見えない内面から目に見える行為へ移っていく。しかも、これは単純に移っていくわけではなく、行為から動機へという逆の運動もある。この往復運動が一つの小説の中でも行われる」という。小説を考えるとは、近代を再考することでもあるのだ。『源氏物語』ともからめながら谷崎潤一郎を扱った最終章も大きな峰をなす。独立したミニ評伝の気味もあるこの章では、関西を日本の「地中海」と見立て、この地を選んでたった一人でルネッサンスをくわだてたスケールの大きい作家として谷崎を語る。通俗をおそれず、しかし、女性や母性を丹念に描くことで人間の奥深い部分に迫った谷崎は、映画を愛し、色を好んだ作家でもあったが、テーマを拾うことで理解できると思ったら大間違い。すべては彼の物語りに奉仕するのだ、との言にドストエフスキーのときとはやや違う、親しみの混じった敬意があふれ、小説家辻原登の立ち位置がおのずとあらわれるのであった。