書評家・吉田伸子さんが評する『今週の一冊』。今回は『プリンシパル』(長浦京、新潮社 2310円・税込み)です。

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 昭和20年8月15日、水嶽綾女は疎開先の長野から東京・渋谷へと向かっていた。16歳の春、東京女子高等師範学校の入学試験に合格し、夜逃げ同然に家を飛び出して以来7年。一度もその敷居をまたぐことなく、教師としての道を歩んでいた彼女の元に届いた父・玄太の危篤の報。恩師である日野の「最後にちゃんとお父上と向き合ってらっしゃい」という言葉に背中を押され、嫌々ながらも綾女が足を向けた実家は、関東一円を取り仕切るヤクザ・水嶽組の本家でもあった。

 終戦のその日、水嶽組4代目である玄太は息を引き取る。未だ戦地にいる長男と三男、精神を病んで療養している次男の代わりに、喪主を懇願されるも、綾女は固辞する。しかし、戦時下、横領した食糧や軍需物資を大量に備蓄していた水嶽組は、玄太の死の直後から、敵対している組織や暴力団から狙われ、幼い頃から綾女を可愛がってくれていた乳母一家は、彼女を匿ったことにより惨殺されてしまう。自らが招いたその“罪”の意識から、綾女は喪主を務めることを承諾し、兄たちが戻ってくるまでの期限付きで、水嶽組の組長に就任。そのうえで、乳母一家を襲った敵を血祭りに上げる。

 ここから、綾女の“戦争”が始まる。忌み嫌っていたヤクザの世界に足を踏み入れ、混沌とした戦後社会で水嶽組が勝ち抜いていくために、政治家やGHQとも取引をし、その手を血と謀略に染めていくのだ。あれほど憎悪していた水嶽の血。けれど、その血を最も色濃く引き継いだのが自分自身だった、という綾女の絶望と、乳母一家への、拭いきれない罪悪感。綾女にとって、ヒロポンは自分自身を持ちこたえるために不可欠なものとなっていた。

 本書は、この綾女というヒロインの物語であると同時に、戦後日本の物語にもなっていて、そこがまた読ませる。米軍占領下の日本の“表と裏”を、驚くほどリアルに活写してみせるのだ。

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