チョークで「書く」音が印象に残る (c)「私のはなし 部落のはなし」製作委員会
チョークで「書く」音が印象に残る (c)「私のはなし 部落のはなし」製作委員会

 これだけ多くの被差別部落の「当事者」が出演して差別について語った映画がかつてあっただろうか。5月21日に公開されたドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」。研究者や「差別する側」の話も集め、同和問題の「今」が浮かび上がる。35歳の満若勇咲監督に話を聞いた。

【写真】ドキュメンタリー映画「私のはなし 部落のはなし」の写真の続きはこちら

*  *  *

──まずタイトルにある「はなし」が生き生きとしていて、「私」に基点を置かれていることに新鮮さを感じました。

 じつは当初付けていた仮題は「対話と構造」だったんです。対話を通して部落問題を描こうという狙いがあって。「私」を入れたいまのタイトルにしたのは編集の追い込み段階で、日本に住んでいるかぎりは誰もが関わりのある問題だと思ったんです。「はなし」と平仮名にしたのは、僕は硬いのが好きではなく、そこは意識したところです。

──カメラの前で自然体で体験について「はなし」をする当事者たちの多さに驚きました。逆に顔も名前も隠す条件で「あの人たちとは血筋が違う」と声をおとすのが、部落の近隣の人だというのが印象に残りました。

 たしかに、いまは逆転現象といいますか、部落出身者は顔を出して話すこともできるけど、差別する側は顔を隠してでないと話せない。匿名だからこそホンネを語りだす。逆に顔を出さないということで差別の根深さが伝わるだろうと思いました。当事者に話をしてもらうときに心掛けたのは、特定のゴールを目指さないということでした。

──映像もゴールが見えなくて、それゆえ目が離せませんでした。たとえば、京都駅に近い老朽化した団地が舞台となるパートですが、戦後まもなく嫁いできた先が部落で、ばくち好きの夫に苦労させられたと部屋でおばあちゃんが話す。場面が一転し、ベランダで洗濯物を干している。ハンガーにはアイドルの顔写真が付いているのを映している。無言のなかに生活が見えてきますね。

 あれは氷川きよしなんですね。編集マンとは「肉体感」と呼んでいたんですが、あえて説明せずとも、その人の立ち居振る舞いから存在が感じられる。そういう瞬間をつないでいけば、ゴールがなくとも観る人は引き込まれるだろうという編集方針で作業しました。僕の本業はテレビのカメラマンなんですが、ふだんの撮影で「このしぐさはおもしろいなぁ」と思っても、だいたいは落とされる。それもあって自分が監督するときは違うことをやろうというのはありました。

次のページ