日本代表監督時代のオシム
日本代表監督時代のオシム

 オシムはこの件についてコメントを求められて言った。「選手が被害を被らない形で、きちんと解決した方がいい。選手はプレーで勝負するものだから」(日刊スポーツ5月4日)。唯一、我那覇を信じて思いやった発言をしている。同時期に川淵三郎日本サッカー協会会長(当時)が「悪意が無いからといって許されることはない。我那覇の件はけん責処分とか6試合以下の出場停止処分か、それより重い資格停止(12カ月以下)、その程度が常識的だろう」(同5月7日)と量刑にまで言及していることとは対照的な姿勢であった。

 激しい民族対立で殺し合いが起こったオシムの母国ボスニアは、1995年に紛争解決のためにムスリムとクロアチア人が主体の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人を中心とした「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」に分割された。三つの民族の代表が輪番制で就任する大統領評議会が設けられたが、3民族の代表たちは融和など望んでいなかった。他民族を罵倒し、「愛国者」になることで求心力を得て、それぞれの利権を確立した政治家は対立をむしろ利用し合っていた。

 オシムに祖国をひとつに統一するには、何が必要かと問うたときの言葉は「まず信じることだ。相手をモンスターだと思ってしまうと自分もモンスターになってしまう」。ボスニアサッカー協会も政治に倣っていた。ひとつの協会に三つの民族の会長が君臨していたが、これを問題視したFIFAは、一元化を勧告する。しかし、協会側はこれを実現できず、2011年4月、ついにはFIFAから除名されてしまった。

 そこで乗り出したのが、オシムだった。仲介のためにセルビア人共和国大統領のドディックに会いに行った。首都のサラエボの人々からすればそれはまさに鬼の棲(す)む地域であった。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の二つの民族は、セルビア人共和国をセルビア人によって強引に作られた侵略支配地域と見ている。

 一方、セルビア人共和国のセルビア人はボスニアのユーゴからの独立を憲法違反の建国と考えている。ドディックはボスニアから分離してセルビア本国との合併を公約に掲げて宣言しており、サラエボからの使者を「外国人」としてずっと軽視していた。しかし、ドディックはオシムの説得に応じた。「イヴァン(オシム)は私に会いに来てくれた。それが何より大きかった」(ドディック)

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